『天使のくれた時間』(The Family Man)
『ナンナーク』(Nang-Nak)
監督 ブレット・ラトナー
監督 ノンスィ・ニミブット


 第135回市民映画会のプログラムは、ともに男女の断ち切りがたい想いの丈の深さを描いて、実に対照的な二本立てだった。片や十三年前に別れた恋人との果たせなかった結婚生活を“天使のくれた時間”のなかで体験し、自分の人生にとって最も大切なものが何だったかということに目覚め、かつての恋人ケイト(ティア・レオーニ)への想いを蘇らせるジャック(ニコラス・ケイジ)を描いた、現代ビジネスマンのアメリカ映画であり、もう一方は、明治維新のころのタイの田舎村を舞台に、恋い焦がれる夫マーク(ウィナイ・グライブット) が出征中で不在の間に難産で生命を落とした若妻ナーク(インディラ・ジャルンプラ) がこの世への未練と夫への想いで幽霊となるタイの映画だった。両作品に共通しているのは、想いの丈の深さを偲ばせるのに、夢体験なり、霊体験なり、現実世界とは異なる深層世界での体験によって、その想いの強さを描いている点と、古典的でありながら、いかにも現在の映画であることを印象づけている点だ。
 アメリカ作品で言えば、家族と男女の愛を謳い上げ、いかにもそれらしいハッピーエンドを迎える古典的なテーマと展開の一方で、ジャックが夢に見るハートウォーミングな家庭生活の描き方にしても、そもそもの最初の二人の別れ方やハッピーエンドのつけ方にしても、男女共同参画社会的な配慮を抜きには考えにくいものだったし、何より旧来の作品だともっと率直に、社会的成功や裕福さより愛と家族の満たしてくれる心の豊かさを讃えたはずなのだが、今やそのような結末では、観る側が同意しないことを見越しているかのように、リッチでゴージャスな生活を肯定し、けっして虚しいものとして対照的に位置づけたりはしていないことだ。古典的な映画の感覚からすると、妙に落ち着きの悪いところがなくもないラストなのだが、映画が時代を映す鏡なればこそ、こうでなければならないという気もする。とりわけ、ジャックが夢のなかで見た家庭生活における妻の姿が、旧来のジェンダーから解放された形での女性の魅力に溢れてて、ティア・レオーニが素敵だった。
 タイ作品のほうは、思いもかけない怪談物語だった。タイ映画については、今までに『傷あと』『ナンプーは死んだ』『リングの獅子カムシン』『一度でたくさん』『バー21の天使』『僕等はNo.1』といった作品を十年ほど前に観、つい最近も『アタック・ナンバー・ハーフ』を観たところだが、文芸作品、娯楽作品、社会派ドラマ、ハートウォーミングとそれなりに多彩ではあったけれども、SFXを使った怪談ものまであるとは思いがけなかった。物語そのものは、タイでは古典的なものらしく、これまでに何度も舞台化や映画化がされているものらしい。観終えた後、会場で市民映画会運営委員の杉本氏から「タイ版雨月物語みたいだったでしょう」と言われてなるほどと思ったが、古典的シンプルさと力強さに感心するだけでなく、ホラー映画的な恐さの演出がけっこう巧みで、どぎついまでに生々しくリアリスティックな描写と幻想的な不可思議さと敬虔な仏教国の神秘とが絶妙のバランスであった。産婆が盗み取った指輪には、時代設定や暮らし向きを踏まえると少し違和感が残ったが、古典自体のオリジナルでもそうなのだろうか。
 戦地で負傷し、瀕死の状態であったマークの苦悶と難産に苦しむナークの姿を重ね合わせて深い絆で結ばれた二人の同期性を窺わせた編集が効果的で、後には帰郷したマークとナークが交わる姿に難産に苦悶するシーンが重ねられていたが、難産で死に到ったことが判明してみると、それらのイメージは極めてシンボリックなものとなり、すべてはナークの死に到る難産に帰着する印象を与えるとともにマークの生命を生き長らえさせたのがナークの捧げた生命であったかのイメージすら呼び起こしていたように思う。幽霊となってまでも愛しい夫と三人で過ごしてみたかったナークの想いの丈からすれば、それを邪魔だてする者への怒りのほどは悪霊と見紛われてもいささかの怯みも見せない苛烈なもので、まさしく凄まじいというほかない。幽霊そのものよりもこれだけの想いの丈の深さのほうが恐い気もする。『天使のくれた時間』とは、えらい違いだ。


推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2001/2001_06_11_2.html
by ヤマ

'01. 9.27. 県民文化ホール・グリーン



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