『グリーンマイル』(The Green Mile)


 映画における“観せる力”というものを再認識させてくれるような作品だった。仮に終わりの10分くらいを先に観る形になったとしたら、訓話めいたモノローグを少々押しつけがましく感じ、いささか白けてしまったのかもしれない。この終わりの10分をそういうふうに感じさせないようにするために、それまでの3時間が費やされているといったような映画だ。ゆったりと落ち着いた演出と展開のもとで、現実にはなかなか信じ難いような奇跡と不思議の物語によって次第にその気にさせられていく過程に、まるで映画の魔法を感じるような味わいがある。粗筋だけを説明されたら、信仰心の薄い者には何だか突拍子もなくて、観に行く気が失せるかもしれないのに、実際に観てみると3時間が長いとはつゆとも感じなくて、最後の訓話めいたモノローグにも白けるどころかある種の感動と感銘を覚えてしまう。そして、そのことによって、力のある映画の魔力というものに思いを馳せ、改めて感慨を覚えるのだ。
 ヘンに神の存在や癒しについての押しつけや能書きだけを強調したりせずに、何よりも感じ取ることの大切さを自発的に感じさせてくれるところが巧みだ。永い命を与えられ生き長らえることを贖いとみる眼差しにも深みがある。
 少し気になったのは、ジョン・コフィ(マイケル・クラーク・ダンカン)が黒人の大男であったこと。神の使いのような存在だとは言え、念入りに大男にしているところにも窺えるように、要は異形の者で普通の人間ならぬ存在ではあるわけで、そういう役割を負わせるときにアメリカ映画ではいつも黒人やインディアンが起用され、しかも普通の人間より上位に置くことで一見したところ偏見の眼差しと反対のものを提示しているように見えて、実は同じ人間扱いをしていないという点では濃厚に差別的傾向があるという特徴をこの作品も脱していない。そんな印象を残すのは、彼がただ一人の黒人という形で登場していることが大きく影響しているように思われる。他にも複数以上の黒人が看守(時代設定からは不自然かもしれない)だとか囚人だとかで登場していたら、そんな引っ掛かりは残さなかったかもしれないだけに少々残念な気もする。コフィの処刑に際して、耐えるポール(トム・ハンクス) を際立たせるためだろうとは理解しながらも少々興醒めであった、若い看守にやたらと涙を流させる演出とともに、もう少し気配りのほしかった部分である。
 しかしながら、とりわけ奇跡と不思議の物語であるだけに、浮かび上がらせた奇跡と不思議以外については、きちんと辻褄があっていないと折角の奇跡と不思議がただのご都合主義に見えたりしてインパクトを欠くという点については、観ている間じゅう気になっていた年齢と年数に対して、きちんと説明責任が果たされていてすっきりした。また、それと同時に作り手にその自覚があることが窺えて嬉しく思った。
 映像として観客が目にした奇跡と不思議は、ただちに実際に起こったことだと硬直して受け止めないでも、受苦と癒しの心に満ちた美しい魂との奇跡的な出会いについての記憶というものを映画的に視覚表現したら、このようになるというふうにも受け取れるような表現の懐の広さが説得力にも繋がっていて感心させられる。
 それにしても、原作においてもコフィが処刑前にただ一つ望んだことが映画を観ることだったのだろうか。気になるところではある。そしてまた、ポールの台詞で明言されていたように、新世紀をまたぐ時代意識を鮮明にしたうえで、神の存在を問い掛ける映画を世に送りだした作り手の思いというものやそれに対して寄せられた作品への高い支持という結果の持つ意味についても、大いに触発されるものを覚えた。

推薦テクスト:「paroparo Cinema」より
http://www2.inforyoma.or.jp/~paromaru/cinema/zatsubun/23.htm
by ヤマ

'00. 3. 7. 東宝1



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