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『ショコラ』(Chocolat) | |||||
監督 ラッセ・ハルストレム | |||||
もちろん悪い作品ではない。映像的にもしっかりしているし、真面目で良心的な映画だ。でも、映画としての魅力を僕は充分には感じ取れないで、何だか陳腐に見えて仕方がなかった。 最後の若い神父の説教で総括されるように、守るべきものが秩序であれ、自身であれ、厳しく戒め、否定し、排除するのではなく、いかにして受け入れていくのかが人間として問われるべきものだということは、ある種の普遍性をもって承認されるべきことだから、そういう作品だから古いとかいうわけではない。いささか時代的ずれを感じるとしたら、この作品では、因習とか自身の殻を打ち破る勇気と困難に焦点が当たっている部分が、むしろ現代は、打ち破るべき殻の存在どころか、あらゆるものが壊れてしまって、信ずるに足るものを感じ取れない不安とそれを直視することに耐えられない無感覚のほうに時代的アクチュアリティがあるといったこととのずれだろう。とはいえ、自己革新というテーマ自体の普遍性が今や全くなくなっているわけではないし、だからこそ、この映画の時代設定は1959年なのだろう。 それにもかかわらず、僕がまずまずに仕上がった陳腐な作品だというふうに感じた一番の理由は、この物語とその人物造形がいささか図式的で人間としての息遣いに欠けていたように感じたからだと思う。多分にファンタジー色の強い作品なのだから、人間的リアリティよりも寓話的性格づけを明確にした人物造形をしていれば、息遣いのほうにとらわれたりすることなく、鑑賞できたような気もするのだが、なんだか中途半端だった。 ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ) には、北風とともに各地を渡り歩き、形式的な戒律にとらわれた教会主義や因習から人々の人間性を回復させる、神からの使いといったイメージが賦与されている。村人に嫌われることが判っているのに、頑なに教会に行こうとしないのは何故なのかと娘のアヌーク(ヴィクトワール・ティヴィソル)から訊ねられても黙して答えないが、南米の先住民の母を理由にするよりは、物語のなかで賦与されているイメージによるものと解したほうが判りやすい。こういった前提そのものが既に生きた人間的リアリティよりも、寓話的性格づけをされた人物像だという気がするのだ。そして、不思議なチョコレートというのも、その前提のもとにファンタジックな光彩を放つのだという気がする。しかし、作り手は、それだけに留まることに飽き足りなかったのだろう。 一方、人間ドラマとして観ると、僕には最も重要なシーンは、一度は流浪の旅をやめて居つこうとした村をやはり去ろうとしたときに、娘に対する強硬で乱暴な対処によって、母の遺灰壷とおぼしき陶器を割ってしまう場面だ。その拠って立つ価値観は違うにしても、自らのスタイルを頑なに守ろうとしていることや人への関与の仕方が強烈な自我の拡張である点において、ヴィアンヌが自分もレノ伯爵(アルフレッド・モリーナ) とさして違わないことに気づいたかのようにも思わせるところがポイントだ。村に来た当初、営業妨害のような嫌がらせをしたレノ伯爵に対して糾弾に出向いたヴィアンヌが店を荒らされてもレノ伯爵を許せたのは、それゆえなのだろう。 また、このシーンには、ラストとの関連で、遺灰壷が割れたことで母の呪縛が解けたかのような意味合いもあるだけに、実に意味深長なのだが、ここからの人間ドラマの掘り下げがなく、ジョゼフィーヌ(レナ・オリン)のみならず、いつのまにかカロリーヌ(キャリー=アン・モス)までもが加わって、ヴィアンヌに再び村に留まる思いをさせるに足るようなチョコレートづくりに村人が集まっている場面で片付けてしまったのでは、人間ドラマとしていささか物足りない気もする。 結局のところ、人間ドラマとして観ると、説明や描写の力不足によって人物像が図式的で息遣いの欠けたものに留まり、寓話的ファンタジーとして観ると、シンプルさを欠いて人間的複雑さやエピソードを盛り込み過ぎたきらいがあるように思えて、妙に中途半端なものになっていると感じたのである。そういう意味では、少し残念な作品だ。 | |||||
by ヤマ '01. 5. 2. 松竹ピカデリー3 | |||||
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