『ハート・オブ・ウーマン』(What Women Want)


   一年あまり前に『ノッティング・ヒルの恋人』(ロジャー・ミッチェル監督)を観たときに、男女を入れ替えれば、かつて繰り返し作られた恋物語の典型的なパターンとそっくりそのまま同じ類型だと気づき、それが男女を入れ替えて成立する時代の変遷に改めて驚くとともに、映画とはまさしく同時代性をもって旨とする表現だという感慨を抱いた覚えがある。

 金と名声を手中にしている女に見初められる立場になっている男の側を揶揄するでなく、逆転した立場にある女の側を誇示するでもなく、極自然なこととして、かつて繰り返し作られた恋物語がそうであったように、見初めた異性の素朴で純真な善良さが社会的成功をおさめた者の凝りをほぐす、境遇違いの恋が綴られる。お定まりのように、一旦は、うたかたの夢と破れそうになりながらも、最終的には、成功者が金と名声の代償として見失いかけてた人間らしさを回復する伴侶との巡り会いへと展開していくのが、お約束事。いささかのひねりもなく、まっとうに踏襲していたところが逆に気が利いていた。そんな物語が男女を入れ替えて全く違和感なく成立することを眼前に現出させたところが新鮮で、なかなかの時代感覚だった。

 こういった同時代性をもって旨とする映画の妙味をこの作品も強く意識させてくれたように思う。若い女性が消費動向を顕著なまでに左右するという、僕なんかには少々いびつに見える状況がけっして日本に特異なものではないらしいことがいささか驚きだったが、日米こぞって女性の時代なんだそうだ。そういう観点から、作り手がまさしく女性的感性として、原題の意味する“女たちの欲しいもの”だと言っていたのは、むろん女の心の声がすべて聞こえてしまうニック(メル・ギブソン) のような男のことではなくて、ナイキのオファーを見事に射止めた「試合は要らない、したいのはスポーツだ」というコマーシャル・コピーに込められたものなのだろう。人種をも交えつつ、女性ばかりの三人のクライアントに、ご丁寧にも「パーフェクト!」と言わしめて強調していた。

 そのコピーに込められた、争って勝ち負けを競り合うのが男の論理だというのは、いかにも今までの社会におけるジェンダーとして了解しやすいものだ。そして、対照的なまでにダーシー(ヘレン・ハント) を含め、女性たちは、勝負感覚を表出しない。ダーシーがアグレッシヴだと受け取られるのは誤解であって、彼女には攻撃意図はなく、ただ自分に正直に率直にものを言うだけだし、仕事の実績を上げたいのも、ライバルに勝つためではなく、自分の能力の証明と確認のためだ。勝敗による外からの評価の目は必要ではなく、内なる自己の充足感こそが女性的感性の求めるものだというわけだ。確かにそれは、今もてはやされている女性的感性だとされているものと合致している。だが、僕自身は、それに必ずしも同調するものではない。時代遅れになりつつある古い価値観だという気はするが、一般的には“今まで=男社会、これから=女の時代”的な安直な図式のなかで流布しているにすぎないものだという気がする。勝敗や外からの評価にこだわる女は、けっして例外的なものではなく、今までとこれからの対比には同調しても、それが直ちに男と女の対比に直結するものではないと僕は思っている。

 しかし、作り手は、先刻そんなことは承知のようだ。この作品は、脚本にも参加している女性監督によるものでありつつ、妙に角張ったフェミニズムを押し付けてこないところがいい。いかにも通俗的なフェミニズム・メッセージを中核に据えながらも、むしろ古き時代のハリウッドや“男のなかの男”への愛好をベーシックなところに持っている。だからこそ、愛するそういう男たちが、さらなる魅力を獲得する術をほのめかしているのだろう。つまり、それは「いい気になって、自分で自分に酔っちゃわないで、他者をやさしく見つめる眼差しとデリカシーを持つ」ということなのだ。ひょんなアクシデントで得た体験は、男のなかの男で女にもてるのが自慢だったニックに「俺は本当のところはゲイなんだ」などという、以前なら口にもできなかったであろう言葉でもって、配慮のための嘘を、女に求められるままに言える男に変えたのだから。




推薦テクスト:「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/whatwomenwant.htm
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2001/2001_02_12_2.html
by ヤマ

'01. 2.18. 東宝3



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