『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』(Hilary And Jakie)


 有名な指揮者ダニエル・バレンボイムの妻で天才と呼ばれたチェロ奏者ジャクリーヌ・デュ・プレとその姉ヒラリーの物語である。露悪に堕ちず、美化に溺れず、強烈な人生を淡々とした語り口で綴るからこそ微妙な愛憎と葛藤が鮮やかに浮かび上がる。それでいて暗い気分を残さない上質の作品だった。

 姉妹が別々の人生を歩み始めたイタリア旅行から後を同じエピソードを踏ませながら、それぞれの視点から描く形で綴った構成のうまさが効いている。なまじ幼い頃に「姉さんが自慢でしょう」と妹のほうが言われていた記憶があるだけに、長じて反対になってしまったつらさが身にしみることや妹の過剰なまでのパッションを羨みつつ辟易としながらも育んでやりたいと思う愛情が嫉妬や憤懣とも一体となって複雑な感情をもたらしていることがデリカシーを湛えた描写で綴られていた。

 一人の男に特別な存在だと言ってもらえることを大切にする、普通の女としての生き方を選ばざるを得なかった姉と多くの人に特別な存在だと賞賛されることに応える生き方を選ばざるを得なかった妹の対照が、痛ましくも鮮やかだ。選ばざるを得なかったものをいかにして自身のうちで積極的に評価し取り込んでいくかということと同時に、何かを選ぶことは何かを捨てることでもあるという断念をいかにして自身のうちで乗りこなしていくかというのは、万人に共通する人生の課題だが、妹はあまりにも幼く無自覚なるままに選択せざるを得ないほどの天賦の才能をチェロに関して持っていたうえに、成熟することを簡単には許してくれないだけの激しいパッションをも持ち合わせていたために、結果的に不幸な人生を歩むことになった。

 そもそも妹は、芯から音楽が好きだったのではなく、姉に対する憧れと対抗心の強さから音楽に精進したのだが、その恵まれた才能によってあまりにも早くから認められすぎて、音楽そのものを好きになる間もなく演奏活動に憔悴していったというのが、原作者の一人でもある姉ヒラリーの妹ジャクリーヌ観であり、おそらく的を射ているのだろうという気がする。そして、そんな妹を救ってやりたかったけれども、当時の自分には妹のきらめく才能やそれへの賞賛に対する嫉妬と羨望やら屈辱でそこまでは見えずにいたということへの遺憾が、問わず語りに滲み出ていた。そこに作品の品性が窺える。

 シーンとしては、著名であるはずの自分を認知していなかったバレンボイムの気を惹くためにチェロを弾き始めたジャクリーヌの演奏を耳にして、彼が帰ることをやめて始めたセッションの場面が印象深い。音楽を合奏することで親密に交わる魂の高揚をうまく捉えながら、よく見かけるような官能性を忍び込まさずに描いていたのが妙に新鮮に感じられた。また、極度のストレスが原因の一つともいわれているらしい多発性硬化症に苦しみ始めたジャッキーが、コンサートでの演奏中に、自分の弾くチェロの音色が音楽としてではなく、自身の心を脅かす暴力的な凄まじい音として、魂を切り刻むように響いてくるにもかかわらず弾き続けなくてはならなくて、彼女が苦悶しながら演奏するさまを描いた場面の迫力も見事だった。その心の内を知る由もない聴衆が無邪気に贈る賞賛の拍手の音は、彼女の耳にどのように聞こえていたのだろう。
 なまじ傑出した才能と技術を持つことは、実はとんでもなく恐ろしいことだと教えられ、凡人の安穏を享受する身としては、ゆめゆめ憧憬や羨望を抱くべきことではないのだと知らされたような気もする。




推薦テクスト:「マダム・DEEPのシネマサロン 」より
http://madamdeep.fc2web.com/hilaryandjackie.htm

推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2000hocinemaindex.html#anchor000136
by ヤマ

'00. 3.18. 東宝3



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