『マーシャル・ロー』(The Siege)
『スリー・キングス』(Three Kings)
監督 エドワード・ズウィック
監督 デイビッド・O・ラッセル

 同じ日に、ともにアメリカとイラクの問題を題材にした作品を観た。『マーシャル・ロー』では、指導者を拉致された報復にニューヨークに乗り込むアラブのテロリストたちが、嘗てアメリカのCIA活動員に対イラン政策として軍事訓練を受けたイラク人であり、その手口がCIAそっくりである皮肉が効いていた。そして、それを大都会ニューヨークで無差別テロという形で、自らの命を厭わぬ殉教的狂信性でもって繰り広げられるといかにも手の打ちようがなくなる恐さが、実際に起こり得ないことではない気にさせて、迫真的だった。
 結局それに対抗するには軍の出動も止むなしとされ、大統領の発令により戒厳令[マーシャル・ロー]が敷かれるわけだが、軍隊の介入はあくまで避けるべきことだという意見だったダヴロ−将軍(ブルース・ウィリス) も指令が下るや、徹底的に軍隊のやり方で制圧し捜査を進めていく。太平洋戦争時の日系人収容所やナチスのユダヤ人収容所を髣髴させるアラブ人収容所が急造され、強引で反民主的な手法によって大勢の人々が逮捕拘束される。これこそが軍隊だと言わんばかりだった。そして、民間人被疑者を拷問にかけ、その事実を隠蔽するために殺してしまう。非常時の名のもとに手段を選ばないことへの躊躇いは許されないのが軍隊というわけだ。チラシには「アメリカのデモクラシーが立脚している土台、その根底を揺るがすような状況に直面したとき、モンスターと戦うためには、アメリカ国民もモンスターにならなければならないのか?」という問い掛けが監督の言葉のようにして綴られていた。映画の原題の意味する“包囲”というのは、もしかすると、軍隊による囲い込みによって収容されたアラブ系住民を指すだけではなく、アメリカとアラブの泥沼のような抗争によって民主主義が囲い込まれてしまうことをも意味していたのかもしれない。
 この問い掛けへの作り手自身の回答だとも言えるのが、最後に将軍を告発し、逮捕しようとしたFBIのハバード(デンゼル・ワシントン)の言葉と態度だ。「現実と理念の狭間にあって、現実に負けて台無しにしてはいけないものがある。その獲得のためには数多の時間と幾多の先人の尊い犠牲が払われている。それをあなた一人の意思と判断で壊してしまうのか。そして、その罪に若い部下たちを巻き込むのか。」というようなことを勇気をもって、元上官でもある将軍に迫った場面には力強いものがあった。
 あらゆることについて、「これが現実だろうが!」というような調子で居直って、なし崩し的に“何でもあり”という箍の外れ方をしてきている今の世の中の風潮にいささか呆れ果てているせいか、大いに共感を覚えたのだが、それ以上に気に入ったのは、この作品では、主要人物がみんな、今の世の中で最も失われてきているものだと僕が常日頃感じている“誇り”というものをきちんと持っているところだった。
 元CIA活動員でエリースと名乗っていたシャロン(アネット・ベニング) が、アメリカ政府による裏切り、軍事訓練を施した教え子達からの裏切り、恋人でもあったアラブ人サミール(サミ・ボージラ) からの裏切り、という三重の結果的な裏切りに対して、最後までどこにも責任転嫁をせず、苦渋にまみれながらも、逃げ出さずに何とかしようと足掻いた姿は強い印象を残している。ダヴロー将軍は、最後のところで自分の負うべきものに対して考え違いをし、踏み外してしまったが、それでも彼なりに自らの職務に対する責任と誇りは持っている人物として描かれており、けっして俗物ではない。ハバードの片腕として、ともに捜査にあたったFBI捜査官フランク(トニー・シャルホウブ)は、アラブ人でありアメリカ人でもあることに葛藤しつつも誇りと自負を失わない人物像であった。
 この作品に比べると『スリー・キングス』はB級娯楽作品の域を出ていない気がする。奇抜で新しい戦争映画、奇想天外な着想とか言われているが、たかだか砂漠の戦場をロールスロイスやベンツが走るだとか、携帯電話でアメリカの自宅を経由して味方に居場所を教えるだとか、砂漠がミルクの海のような状態になるだとかいうことよりは、ニューヨークに戒厳令が敷かれることのほうが遥かにスケール感とアクチュアリティにおいてまさっている。でも、この映画には『マーシャル・ロー』にはほとんど感じられなかったアラブの人民側からの視点というものが多少感じられて、ちょっと珍しいと思った。

by ヤマ

'00. 4.26. 松竹ピカデリー1&2



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