『ファンタジア2000』(Fantasia2000)


 映画史上の金字塔とも言える『ファンタジア』のニュー・バージョンとしては、その名に恥じない仕上がりになっているから見事なものだ。前作を僕が息子と愛宕劇場で観たのは、88年だから十二年前になるのだが、当時、半世紀近くも前にこんな凄いアニメーションが作られていたことに驚愕した覚えがある。一九四〇年当時に、これだけの作品を作られてしまうと、アニメーション作家としては何も今さら作りようがないという創作意欲の減退すら招きかねないと思われるほどの完璧さを印象づけたものだ。W.ディズニーの当初の構想と異なって、連作エンターテイメントとして毎年新作を製作するはずが六十年も先送りされたのには、そういう事情もあるのではないかと密かに思っている。
 それだけの作品の新作なのだから、その名に恥じない仕上がりだけでもたいしたことなのだが、旧作の技術的な驚異の最たるものが音と映像のあまりにも見事なシンクロニズムだったという点では、当時と違ってデジタル技術の進んだ今では、その点は、いともたやすく処理できるようになっているはずなのに、そのわりにはシンクロニズムの快感を大前提にしたうえでの作品づくりが徹底してはいなかったように思う。むしろ技術的にはあまり難しくなくなった分、アニメーション作家たちの関心を惹かなくなったのかもしれない。どちらかというと、楽曲の喚起するイメージといったことに関心がより向いているように感じた。
 でも、冒頭のベートーヴェン“交響曲第5番”など抽象度が高い映像だけにもっと厳密なシンクロニズムが果たされていてほしかったし、二曲目のレスピーギ“交響詩ローマの松”は、シンクロニズムよりも音楽のもたらすイメージの喚起力を主題にしたとはいえ、少しシンクロニズムがないがしろにされすぎてはいなかっただろうか。今回の作品のなかでも、最後の“火の鳥”と際立つ形で並んで、六十年前には決して視覚化できなかったと思われる映像イメージを現出していただけに殊更に惜しい気がする。シンクロニズムにおける旧作の精神を最もよく継承していたのは、ガーシュインの“ラプソディ・イン・ブルー”とサン=サーンスの“動物の謝肉祭”だった。前者は、今回も再登場した名作“魔法使いの弟子”に迫る寓意を含みつつ、この楽曲が作られた当時の時代と社会を写し取っていて見事だったし、後者は、原曲のモチーフを尊重しつつ、ユーモア溢れる工夫を加えて、動きに幅を持たせ、何とも楽しく仕上げていた。デュカ“交響詩魔法使いの弟子”は、原曲の主題をそのままに生かしたドラマを展開しながら、見事なシンクロニズムのなかにユーモアのみならず不気味ささえも湛えた寓 意の豊かさで、観るものを圧倒する。
 ドラマ性という点では、このあとに登場したエルガーの行進曲“威風堂々”の「ノアの箱舟」も四曲目のショスタコーヴィチ“ピアノ協奏曲第2番”の「スズの兵隊」と同じく、既存の著名なドラマと音楽とのリミックスなので、新味はなくとも場面と曲の組み合わせの妙を堪能できる。“威風堂々”は、娘ともども親子で大好きな曲なのだが、行進として考えられる最も壮大なものがノアの箱舟に乗り込む衆生の行進だというのは、納得以外の何物でもなかった。バレエ組曲“火の鳥”で今回も登場したストラヴィンスキーは、旧作でも確か“春の祭典”が取り上げられていたと思う。そういう点では、冒頭のベートーヴェンが確か旧作では第9が取り上げられていたように思うので、締めを飾るにふさわしい選曲かもしれない。
 「火の鳥」と言えば、僕にとってはやはり手塚治虫なのだが、ここで展開されたイメージは宮崎駿の「もののけ姫」そのものだった。『ファンタジア2000』が製作されていたときには既に米国公開を果たしていたと思われるから、ディズニープロが『ライオン・キング』と同じことをまたやっているわけだ。しかも、彼らにとっては他ならぬ『ファンタジア』の新作のトリのエピソードで、日本の名作を借用したことになる。『ライオン・キング』のときの虫プロダクションの公式コメントではないが、なんだか妙に誇らしい気がした。
 シンクロニズム、原曲のモチーフの活用、ドラマ性、寓意、それらを総合して、新作エピソード七つのなかで自分が最も気に入ったのが『ラプソディ・イン・ブルー』であり、次に『動物の謝肉祭』だったのは、今回のエピソードのなかでも現代的なアニメーションから観て最も古典的な映像に近いものだと思われるという点で、非常に興味深いところである。
by ヤマ

'00. 7.30. 高知東映



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