『シュウシュウの季節』(天浴[Xiu Xiu])


 何とも救いのない、やりきれなさの残る作品だった。痛ましさを通り越して、やり場のない腹立たしさに見舞われて仕方がなかったのだが、そんな強い感情を誘発されたのは、それだけ映画に観せる力があったからなのだろう。前半、見事な清冽さでもって描かれていたシュウシュウ(ルールー)が、苛酷な運命のもとで無残に翻弄されるわけだが、その描き方にとことん容赦がないという点では、いかにも女性監督らしい強靭さを感じた。
 無垢で威勢が良くて、はち切れんばかりの若さと眩しさに輝いていた少女が、下放政策で遣られた辺境の地から成都の実家に戻れる許可証をまわしてもらうために、当てもない微かな希望を託して、見知らぬ男たちに次から次へと身体を開き、喰いものにされ、ぼろぼろになっていく過程が綴られる。シュウシュウが傷つく魂の悲鳴を丸ごと庇護者とも言えるラオジン(ロプサン)にぶつけていくさまが実に壮絶だった。
 中国人から差別を受けるチベット人で、若かりし頃に喧嘩の罰として去勢されたラオジンもまた間違いなく社会的弱者である。だが、見下され、痛み傷つく弱者は、さらに自分が見下す側に回れる弱者を求め、責め苛むことで痛んだ心のバランスを取り戻そうとする。多くの人にありがちなそんな悲しい人間の習性そのままを、可憐な少女であったシュウシュウが無残に晒していく。その姿には、観るも耐えがたい気分にすらなった。
 だが、そういう気分になるのは、シュウシュウが荒んでいったのは、愚かの一言ではとても済ませられない“藁をも縋る思い”での望郷の念が切実だったからだろうと思えることや、そのうえに彼女がどんなに荒んでいっても何処か荒み切らない魂の清冽さを備えていたように感じられたことなどによるのであろう。だからこそ余計に耐えがたい気分になるのだ。そういう意味では、本当にカタルシスの得られない作品であった。
 終盤で自分のために涙するラオジンの姿を見て、シュウシュウがようやく彼に対する眼差しを変更させるに到ったとしても、そのくらいでは些かも救われぬ。中国に限らない話ではあるが、およそ国家権力が政策として人民に押し付けてくるもので、個々人の救済のために配慮されるものがあるはずもないことを思い知らされるようでもある。個々人のことは、全く眼中にないか、すぐに忘れ去ってしまうのが国家というものなのだとつくづく思う。そして、シュウシュウを蹂躙した男たちのみならず、少女の悲惨を嘲笑の眼差しでしか見ない看護婦たちにも苛立ちを禁じ得なかった。
 シュウシュウやラオジンをそのような境遇に追いやっているものに対する猛烈な不快感が生じてくる一方で、雄大な大地と天空が広がる壮観に心洗われるような爽快感もこの映画を観ていると伝わってくる。それが観る側のなかで混濁してくる心持ちの悪さに、シュウシュウほどではないのは無論のことだが、作り手に翻弄されてしまったような感じが後から湧いてきた。そして、不快感と爽快感の対象として極めてシンプルに人間と自然という形でおこなっていた対比というものが、判りやすくはあっても、ここから始まる何かというものを何ら生み出さない形に終わっていることが残念であった。
by ヤマ

'00. 3.29. 県民文化ホール・グリーン



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