『レッド・バイオリン』(The Red Violin)
監督 フランソワ・ジラール


 数奇な運命を辿ったバイオリンを狂言回しに、四百年の時を越え、五つの土地を舞台に、さまざまな人間たちによって、音楽という芸術との深くて濃密なドラマが展開される。音楽と楽器にまつわる、数多の人の思いの丈と時間というものが単に通り過ぎて消えていくものではなく、堆積し、連綿と今に続く歴史と文化の重みや奥深さとして刻み込まれていくものであることを生きた人間の物語として感じさせてくれる。そして、そのことによって、音楽が普遍的に人を魅了し続ける芸術であることのリアリティを体感させてくれたような気がする。また、音楽という芸術を実際の響きとして現出してくれる楽器というものも、音楽そのものに負けず劣らず、単なる物ではなくて、長い年月とともに蓄積された時間の重みとたくさんの生身の人間の深い思いの数々を背負った圧倒的な存在感を湛えるものであることを雄弁に語って見事な出来栄えだ。
 そのうえでも現代の舞台が楽器のオークション会場であるのは、実に巧みな設定だ。18世紀のウィーン、19世紀のオックスフォード、20世紀のシャンハイ、これまた巧みに選ばれたとしか言いようのないそれぞれの土地での数多の人の思いの丈を今に受け継ぐ人たちが、一個のバイオリンに途方もない金額を投じることでその思いの丈と時間の重みを競り合うのだ。このモントリオールのオークション会場の様子がそれぞれの世紀のエピソードを繋いでいく形で挿入され、そこに集まった人たちのいわれを語っていく。現在の時点から各エピソードを繋いでいくのがモントリオールであるならば、未来への予言として過去の時点からそれぞれの世紀のエピソードを繋ぐのが17世紀クレモナにおけるタロット占いのカードだ。すべてのエピソードを両側の時間軸から照射し、一個のバイオリンに集約して渾然一体とした時間の集積を果たす効果をあげる構成となっているからこそ、前段のような感慨を観る側が得られるのである。
 しかも、タロット占いで象徴的に語られたドラマの背景にはそれこそ音楽ないしは芸術にとって、切っても切れない重要な要素が実に周到に用意されている。クレモナの愛と死、ウィーンの宗教、オックスフォードの官能、シャンハイの政治、モントリオールのお金。技巧的と言えば余りにも技巧的な脚本なのだが、いささか構成的に過ぎると思う前に、その精巧さに感服してしまった。
 名器は名器となるべく、名工の深い思い入れとともに劇的な誕生を果たしたうえで、伝説の名器となるに相応しい数奇なドラマを背負っていなければならないなどという凡人の夢見がちなファンタジーをも巧みに満たしてくれている点でも達者な脚本だと言える。
 ふたつばかり残念だったのが、レッド・バイオリンに隠された驚くべき事実というのが自分には予想のついてたものだったので、その演出が少し大仰に見えてしまったこととジョシュア・ベルの演奏スタイルが自分の好みと合ってなかったことである。著名な演奏家らしいが、自分にとっては、音楽と演奏に圧倒されたという点で言えば、五年ほど前に観た『無伴奏シャコンヌ』(シャルリー・ヴァン・ダム監督)でのギドン・クレーメルのほうが、遥かに強烈であったし、好みにも合っていた。

推薦テクスト:「eiga-fan Y's HOMEPAGE」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex
/lecinemaindex.html#anchor000256
by ヤマ

'99. 5.30. シャンテ・シネ 3



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

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