『孤島の太陽』
監督 吉田 憲二


 映画にはさまざまな要素があって、娯楽性、記録性、報道性、芸術性などが特長的なものとして挙げられる。この作品において最も価値があるのは、さしずめ一に報道性、二に記録性ということになろうか。製作当時からでも二十年遡る貧しい離島の生活や風景などは、製作当時からでさえ三十年も経過した現在から観ると実に意味のある映像だし、現場主義に徹した偉大な保健婦を郷土の先人として知ることもまた意義深いと思う。そういう意味では、訴える力もそれなりにあるし、脇役に至るまで、いやむしろ脇役ほどに、役者の個性が嵌まり過ぎるくらいに生かされた堂々たる劇映画である。

 しかし、こんな保健婦が実在し、立派な足跡を残しているということを伝える作品であればこそ、大きな疑問もなくはない。その端緒は、初めて島を訪れてから二十年くらいが経過したという終幕あたりでの主人公、荒木初子を演じた樫山文枝が、どう観ても五十代、下手すれば六十代を演じているように見えたことにあった。昭和二十四年に二十三歳で赴任したと映画で語られた彼女が、ちょうど製作時と年代が一致する二十年後に、なぜそんなに老けて見えるのだろうと疑問に思った。

 チラシの裏に刷り込まれていた“荒木初子さん死去”を報じる去年の秋の高知新聞の記事を見ると、享年八十一歳とある。ということは、昭和二十四年当時は、二十三歳ではなく三十二歳ということになる。どおりで製作時点に至ったときに急激に老けざるを得なかったわけだ。しかも、いかにも他所から来た者であるかのように描かれていた彼女が、島の出身者であった。そうなると映画で描かれたドラマのかなりの部分において変質してくるものがある。離島で昼夜の別なく奔走し、献身的に働いて乳児死亡率やフィラリア患者を激減させた、駐在保健婦としての業績までをも曇らせるような変質ではないものの、この映画にあるはずの価値が、一に報道性、二に記録性という印象を与えるだけに、劇映画としての都合を優先させた安易な脚色には、大きな疑問が残る。また、主人公の心の葛藤や決断に至る心の動きの描き方には、いささか力不足を感じたりもした。
by ヤマ

'99. 9.11. 平和資料館草の家



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