『ファイト・クラブ』(Fight Club)
監督 デイビッド・フィンチャー


 昨今の、どこか核心を外れた細部への強迫的なこだわりのように感じられる健康ブームや肥満や喫煙への嫌悪、フィットネスや錠剤の流行、抗菌無菌をありがたがる過剰なまでの清潔主義、それらを偲ばせるものが垣間見え、日本がいつまでたっても文化的にアメリカの属州であろうとしていることに思いを馳せた。しかし、このアメリカ的文化スタイルの挙げ句の果てが、この作品にも描かれた、ストレスフルな生活に蝕まれたヤングエグゼクティヴの、かくのごとく病んだ精神世界なのだ。現代社会をアメリカ一国に集約したくはないので、これをもって現代文明の病理とは言いたくないが、いろんな意味で人工的で、物にしても刺激にしても監視にしても無関心にしても、過剰社会と言うべき環境に生きている者が見舞われる狂気を描いて、かなり凄みがあった。
 日本にもジャック(エドワード・ノートン)のような奴はたくさんいそうな気がする。中の上程度の社会生活を営みながら、生きてることの手応えのなさが言い知れぬ不安感と焦燥感をもたらし、心を蝕まれていく人たち。他人事ではないかもしれない。その根底は、人の営みにおける身体感覚の裏付けというものが、文明化によって生の時間のあらゆる場で損なわれてきたことにあるのだという視点は正しいと思う。残されているのは、セックスとスポーツくらいだから、こういう社会では、この二つばかりがことさらに重視され、もてはやされる。だからこその“殴り合い倶楽部”なのだろう。日本でもSMプレイが軽い乗りで大衆化され、おそるべきことにブーム現象として一般化したりすることにも似たようなところがあるような気がする。そして、“ファイト・クラブ”のカルト教団的な反社会化への発展の仕方というのも他人事ではない。
 そういう意味では、実にアクチュアルで侮れない映画だったが、タイラー(ブラッド・ピット)とジャックの関係については、あのような設定は良いとしても、それならあれは何だったのかという不満が演出に対して残り、『シックス・センス』のようには了解できなかったこともあって、観終えてどこにもカタルシスのない作品だったとも思った。

推薦テクスト:「paroparo Cinema」より
http://www2.inforyoma.or.jp/~paromaru/cinema/zatsubun/03.htm
by ヤマ

'99.12.12. 東宝3



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>