『鳩の翼』(Wings Of The Dove)
監督 イアン・ソフトリー


 登場人物たちの心模様をどう読み取るかで観る側の心が試されるような、含蓄のある人物造形と描写が魅力的な文芸ロマンだった。文学だと直接的であれ間接的であれ、言葉でしか表現できない心理描写を、映画では登場人物の表情や仕種あるいは風景や事物の映像と光の明暗さらには音楽などで表現できる。つまりは言葉で限定されたり、明確に説明されたりしないために、観る側の解釈と想像力が自由に触発されるということだ。この作品は、映画本来の魅力ともいうべきそのことを再認識させてくれる。
 例えば、ケイト(ヘレナ・ボナム・カーター)が新聞記者マートン(ライナス・ローチ)との結婚を実現可能にするためにミリーを利用しようとしたときの割り切りと後ろめたさの具合とか、自ら仕向けておきながらもマートンと大富豪の遺児ミリー(アリソン・エリオット)の親密な様子を目の当たりにしたときに覚えた嫉妬や不安、そして、その動揺のなかで見舞われた自己嫌悪のありようとか、微妙で複雑な心の動きが観る側の心をもさまざまに揺らしてくる。
 マートンの場合においても、ケイトの企みに加担し当事者になることへの割り切りと心理的抵抗の具合とか、それがミリーへの接近の過程で激しく揺れ動くさま、そしてそのとき起こったケイトへの想いの質的変化やミリーへの想いなど、さまざまな心情が観る側の想像力を刺激する。
 ミリーにしても、マートンがケイトの恋人だと察しつつも、限られた時間の生命のなかで彼に惹かれる想いを抑え切れないままに、二人の企みを気取りながらも彼らを許容し必要とした心情の揺らめきとか、「今夜は思い切り羽目を外したいの」とまで言って誘ったのに、叶えられずに死に行くときの思いとか、いろいろなことで複雑な心の動きをみせるのだけれど、いっさい台詞とかナレーションで語られることなく綴られる。それでいて、描かれた総ての人物について、存在感の希薄さや判りにくさというものは微塵も感じさせない。それゆえにミリーの死以後のことが、さまざまな見解の相違をも招く形で観る者の想像力を掻き立てるのである。
 果たしてミリーはケイトの思惑どおりマートンに資産を残したのか、そして、マートンは遺産相続をするつもりだったのか、また、それらの如何によらずケイトは伯母の忠告と庇護を振り切ってマートンとの結婚を選択し、場合によっては母親と同じ轍を踏むことをも覚悟したのか、そのときマートンはそれに応えるのか、ラストシーンで再びヴェニスの街に戻ったマートンは何をしに行ったのか…。観終わってそんなことを思った。そして、この作品を観て心動かされた人たちの解釈を尋ね歩いてみたい気になった。
 きっとさまざまに意見が分かれてくるのではないかと思う。原作を読んで確かめてみたいという思いにも駆られつつ、そんなことをするよりも、自分が感じ受け止めた解釈で、自分にとっての物語を創造することが作り手の側の望みであり、映画としての作品鑑賞の本来だろうと思ったりもした。原作があるからといって映画に綴られた物語の正解が原作だというわけではない。そもそも正解なんて、ないはずの描き方を映画はしていたのだし、それこそが文学とは違う映画としての表現の豊穣さなのだという気がする。
by ヤマ

'99. 4.17. 県民文化ホール・グリーン



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