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『キャラクター 孤独な人の肖像』(Karakter) | |||||
監督 マイケ・ファン・ディム | |||||
独特の風格をもつ個性的な作品だった。人物造形が極端なまでにカリカチュアライズされているのだが、『キャラクター』というタイトルをつけているだけあって、そのことが凄みに繋がっていて空疎な嘘くささを感じさせないところが立派だ。それには、重厚な画造りが大いに貢献している。陰影に富んだ雰囲気を醸し出して、特異な人物たちの物語に堂々とした存在感を与え、奇妙さを感じさせない。それにしても、テ・ジョージやデ・ハンクラーも含めて、主要な登場人物のすべてが何とも意地っ張りで強烈な個性の人間ばかりだ。素直さなどひとかけらも感じられない。しかも、その意地の張り方は、生涯をかけてだから尋常ではない。何とも呆れるばかりだが、それらは意地と言うよりは、自分のスタイルや生き方へのこだわりと言ったほうがいいのかもしれない。 ドレイブルハーブンがヨバに妊娠を告げられ結婚を申し入れたのは、愛ではなくて自分の始末は自分でつけるという彼の信念によるものだという気がする。そして、求婚が受け入れられなくてもしつこく金と手紙を送り続けたのは、一旦自分が決めたことは何が何でも貫徹しなければ気がすまないという彼の自己表現の強靭さであろう。そのことは、非情な税務執行官として鳴らす彼の生き方の美学とも符合する。かたやヨバのほうは、強姦に近い関係を一度もっただけで半年も放られたうえに、愛ゆえではなく自分の美学のためだけに恩着せがましく結婚して貰うのは耐え難い屈辱だと彼の許を去り、生活苦のほうを選んだのだと思う。すべてのことが自分の思い通りになりはしないのだということを沈黙によって雄弁に思い知らせるというやり方で彼を挑発していたのではなかろうか。しかも、両者は共にこの最初のスタンスを微動だにさせないままで生涯にわたって関わり続けるのだ、二人の息子であるヤコブ=ヴィレム・カタドローフを介在させて…。何とも壮絶ではある。 互いの関係と心情を率直に綴る台詞も描写も敢えて避けているので、造形されたキャラクターから何を読み取るかは観る側の想像力に任されているのだが、少なくとも僕はチラシの<物語>に記されている「ドレイブルハーブンは無骨極まりない男で実はヨバに惚れていたのだった」というような観方はできなかった。もし、美学ではなく惚れたということなら、それは自らの申し出を決然と断った凛々しさと誇り高さに対してということなのだろうが、そういう恋愛感情を読み取るよりは、相克のドラマとして観るほうが興味深い。同じことが父と子の葛藤についても言える。自分を破産に追い込みかけた父親からの借金をようやく完済して自由になったというのに、新たに更に多額の借金を、やむを得ない事情からではなく敢えて申し入れる息子。それに対し高利のうえにいつでも完済要求ができるなどというとんでもない無理な条件を課す父親。それでも申し入れを撤回しない息子。そのくせ突然の完済を迫って脅かそうとはなかなかしない父親。ところが、息子が見落としているらしい事実によって破産にまで追い込めそうになると、三日以内の完済を突如求めてくる。お互いが相手の思惑や予想を裏切ることばかりに、敢えて挑んでいる。それも徹底した執念で。 そういう点では、テ・ジョージとの別れに痛手を受けたヤコブが二十数年ぶりに父親に母のもとを訪ねさせ、改めて「我々の結婚式はいつになる?」と言わせて拒絶されるという悪意に満ちた仕掛けたをしたことや逆にドレイブルハーブンが莫大な遺産を息子に託して自殺をしたことも凄まじいと言うほかない。本当のところ自殺だったかどうかは明らかにされないままであったが、いずれにしても、父の死によって初めて息子は、思いがけない事実を知らされることになる。憎むべき男が自分に莫大な資産を遺産として残そうとしていたことを知ったときの彼の驚きの強烈さは想像に難くない。リターンマッチのきかない決定的な敗北感を味わわせたり、それどころか場合によっては、そんな対抗心自体を失わせて父への誤解を後悔させることもあり得るような、命懸けの切り札だったとも言える。そんな激しい応酬を見せつけられると、二人が共に父子の相克のみを生きる糧としていたようにも見える。そういう意味ではお互いの存在の必要性が切実でもあり、その葛藤の濃密さには奥の深いものがあった。代理人に託した遺言に父の息子への屈折した愛を受け取る向きもあるようだが、この壮絶な相克のドラマをそんな浅薄な結末で括ってしまうことには異議を申し立てたい。 | |||||
by ヤマ '99. 3.26. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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