『ビフォア・ザ・レイン』(Before The Rain)
監督 ミルチョ・マンチョフスキー


 映像画面といい、ストーリーといい、その卓越した構成力が際立った作品である。例えば、夜空を背景にシルエットのように浮かび上がる夜景の緊密で艶やかな美しさ。子供達が戦車に見立てて遊んだ亀が火のなかで、投げ込まれた銃弾の破裂する音とともに、炎に包まれてひっくり返ってもがいている映像の簡潔で強烈な象徴性。映画の開始早々から観る者を力強く惹きつけていく。しかし、それ以上に構成力が効果的だったのは、「言葉」「顔」「写真」と題された三つの話の巧妙な関連性における意味の深さと観る者を触発する発見の仕掛けにおいてである。
 第一話「言葉」では、マケドニアの美しい山岳風景のなかで、一体いつの時代の話なのだろうかと不思議な感じのする物語が綴られる。古めかしい修道院で三年にも渡る『沈黙の行』をいとなむマケドニアの若き僧キリルと部落の掟を破ったために祖父を長とする捜索隊に銃をもって追い狙われるアルバニア人の若い娘ザミラの恋物語とくれば、とても現代の話だとは思えない。とはいえ、キリルがロンドンに住む叔父を頼って逃げ出そうとしたり、亀が戦車に見立てられたりするのだから、前世紀まで遡るものでもない気がする。この地域なら、1950〜60年代だとこんなこともあったのかなと思いながら観ていたが、ザミラがアディダスのトレーナーを着ているのが妙に引っ掛かったりしていた。
 第二話「顔」。舞台は打って変わって見まごうことなき現代のロンドン。都会的で時代の先端をいく都市の風景が映し出され、第一話の古式ゆかしい純愛とは対照的な、キャリアウーマンと報道写真家との不倫の恋物語が綴られる。そのなかで、第一話が現代であり、このロンドンに生きる人々と同時代にある人々の話だということを鮮烈な形で観客に発見させる仕掛けが見事だ。そして、IRAのテロ活動が効果的な対照を見せる形で触れられることによって、この都会的な街でもマケドニアと同様に、民族問題に端を発する戦争のような暴力が日常のすぐ隣りにあることを再認識させられる。これらのことは地域の問題とか地域の個性といった特殊なことではなくて、まさしく人類の宿命であると言わんばかりだ。
 そのうえで、同時代に同じ地球上にあるとはまるで思えないくらい掛け離れた空間と価値観を持つ世界を並べられると、同時代性とは言葉で言うはたやすいが、一体何なのだろうと考えさせられる。マケドニアの地に住むアルバニア人たちが少数民族であるがゆえに強固な求心力を保っていかざるを得ないにしても、そのために肉親の命をも犠牲にすることが当たり前とされる世界やおしゃれなディナーを楽しむ場所でテロ活動の巻き添えによって夫が惨殺されてしまう世界が、自分の住む世界と同時代である実感はどうにも持ちようがない。もちろん、そのそれぞれの世界に住む人たちにとってもそれらの出来事は思いがけない不幸として、突然襲ってきたことなのだけれども、その世界における不幸としては驚くべきことではなく、起こり得る当たり前のこととして描かれる。
 それぞれの地域に住む人々は、その自らの住む世界の持っている空間と価値観を当たり前のこととしていられるから、そこで生きていくことができるわけで、それが不幸だとは感じても異常な世界だとはあまり思わないで生きているような気がする。むしろ、人は多くの場合、その身に降り掛かってきた不幸に耐えて生き延びるために、それは自分だけに特別なことではなく、誰の身に降り掛かってもおかしくない当たり前のことであって、異常な出来事ではないと考えようとするのではなかろうか。不幸に限らずとも、例えば、日本人がエコノミックアニマルと呼ばれたことや会社人間ぶりを奇異な目でみられることなどにしても、当人たちは、それを異常だという自覚は持たずに、辛いけれども仕方がない、自分たちの住む世界ではこれが当たり前なんだと思い込んでいるふしがある。
 第二話で強い印象を残す報道写真家アレックスは、マケドニアとロンドンという掛け離れた二つの世界を行き来するなかで、どちらの世界の空気も価値観も、それが自分の住む世界のものであるがゆえに当たり前のものだとは思えなくなっている人物である。ロンドンにいるときは、時に野卑とも言えるような自然の力に近いところにいる者の逞しさと力強さを感じさせ、命や生きる力に対する素朴な敬虔さといったものも窺わせ、ロンドンに当たり前に住んでいる者たちからは少し浮き上がった存在として観ている者の目に映る。一方、写真を捨て、マケドニアに戻った第三話では、逆にワイルドな素朴さよりも身にまつわりついた観念性や内省的な繊細さが、周囲の者たちとは少し異なった存在としての光と影を放っていた。アレックスだけが、マケドニアとロンドンを往来し、マケドニア人の集落とアルバニア人の集落を往き来できる、ボーダーを越えた存在なのだが、僕はそこにチラシに書かれてあるような、民族紛争を解決できる微かな希望を見いだすことはできなかった。いずれの世界にも固着することがないゆえにボーダーを越えることはできるが、自分の住む確かな世界を持つことのできない、アイデンティテイの孤独さを強く感じて、むしろ希望とは反対の印象を抱いた。
 三つの話のいずれもに、それぞれ異なる、許されざる恋と殺人による人の死が描かれ、さまざまな意味での相同性と相異性を際立たせ、深い意味を内包させた構成は見事であったが、ザミルの殺人と逃亡によって三つの話が循環する一つのストーリーを形作るというのは、それが繰り返される悲劇としての人類の性懲りなさを暗示する側面を持ったとしても、いささかあざとく、やりすぎの感がなくもなかった。
by ヤマ

'97. 1.29. あたご劇場



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