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『愛情萬歳』(Vive L'amour) | |||||
監督 蔡明亮 | |||||
十五年以上も前の東京での独り暮しの頃を、忘れていたものが蘇えってくるという感じであれこれと思い出してしまった。学生時分の僕は、よく徹夜麻雀をしていたが、かなり強くて朝まで打てばまず負けることがなかったのに、初めて大負けに負けて失意と空しさのうちに早朝の地下鉄を待っていたことがある。とある冬の日の朝のことで、滑り込んできた銀色の車体がやけに冷たく見えて、思い切り蹴り飛ばすと、当然ながら猛烈に足のほうが痛くて思わず悲鳴をあげた。その時、何やら無性にわびしく悲しくて、涙が出そうになった記憶がある。それは、足の痛みのせいでも麻雀の負けのせいでもなかった。それらは、ほんのきっかけに過ぎず、そのとき噴出した悲しみというのは、日々の生活のなかで堆積を続けていた寂しさやうつろさだったように思う。 この作品のラストで、延々とメイが泣き続けていたのもそういうことであって、車のエンジンがかからなかったことや前夜のことなどは、感情を噴出させるきっかけに過ぎない。問題は噴出してきた感情の掬い取り方だ。全編通じてこの作品の基調となっている作り手の視線は、非常に洗練されておりながらも、細部における仕草や息遣いのリアリティによって、まるで覗き見をしているかのような感覚に観ている側を陥らせるものなのだが、この最後の場面では、ぐっと前に接近したまま愚直に延々と見詰め続けるという、覗き感覚など起こりようもない踏込み方をみせる。そして、すすり泣きから嗚咽、しゃくりあげやら気持を落ち着かせようとする仕草など泣き顔の表情の移り変わりのなかにさまざまな感情の波のゆらめきを投影させている。それまで覗き見をしているかのような気に観る側をさせたリアリティ確かな視線の延長線上でそのようにして踏込まれると、観る側は否応なくメイの感情に共振しないではいられない。とりわけ都会で独り暮しをした覚えのある者、現に独り暮している者には、たまらない切なさを伴って込みあげてくるものがあるような気がする。 それにしても、言葉が日本語でないというだけで、他は全くと言っていいほど東京と見紛うばかりの台北の都市化ぶりはどうだろう。コーヒー、コーラ、ミネラルウォーターの浸透ぶりやコンビニ、携帯電話、若者の露天商い、化粧落しのティッシュの使い方や若者の風呂の入り方まで、あまりにもそっくりだ。発展途上の途上を越えるということはこういうことなのだろうか。現代において発展するということが、都市という名において無国籍化し、うつろで厳しい孤独を背負い込むような生き方を選ばずにはいられなくなることだとしたら、あまり良いことではないのかもしれない。田舎に戻り、家族を構え、団欒の時を過ごすのが日常となってしまった中年の今や、ふとそんなふうに思ったりするのだが、その一方で、かつて都会で独り暮しをしていた若い頃には、そんな孤独を背負ってでも留保していたかった自由への憧憬や自分の領域をみだりに侵されることを拒む潔癖さがあり、また、それに耐えるだけの精神の強靭さも今とは違って若さ故にあったのだということをこの作品は思い出させてくれたような気がする。そういうノスタルジックな感傷的気分からすれば、次第に嗚咽を激しくさせていったメイが、気を落ち着かせようと煙草に火をつけ、ひと呼吸した後、再び嗚咽を漏らし始めて終わったのは、少し残念な気もする。 アジア映画の秀作と言えば、大なり小なり、家族と自然という主題が見え隠れするのが通例であり、また、それゆえに、西洋近代主義が行き詰まり、世紀末的閉塞感をもたらしている今の時代において、近年アジアの映画が注目を集めているのだとも言えるのだが、そういう意味では、この作品には、アジア的な家族や自然は全く現われてこない。これほど家族や自然と決別しているアジアの映画には、あまりお目に掛かったことがないという気がする。現代性という一点だけで勝負し、アジア映画の枠組を越えたところで作品を撮っている作り手の潔さは、リアルなまでに言葉と音楽を排したこの作品のスタイルそのままに、すっきりしていて気持がいい。 | |||||
by ヤマ '96. 1.23. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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