『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』
監督 篠田正浩


 日本映画には珍しく、グランドホテル形式の映画として成功している作品だ。外国映画の秀作にはよくあるスタイルながら、日本映画にあまり見られないのは、職業や世代だけでなく、人種や社会階層をも含めた幅広い人たちが自然な形で一堂に会する設定が困難だからかもしれない。そういう面では敗戦直後の動乱期の瀬戸内航路の一夜というのは、無理のない形でさまざまな人の人生と人となりを見せてくれるのに格好の舞台である。少年の目に映ったさまざまな大人たちということだからだろうが、彼らには、名前も与えられず、闇屋の男は鳥打帽を被っているから鳥打ちさんだし、奇麗な女の人だから小町さん、活動写真の巡回興行をしているから巡回さん、復員兵だから復員さん、サーカス芸人は怪人さんといった按配である。でも、匿名であるが故に却って日本人の総体として彼らが浮かび上がってきたような気がする。
 そこに現れている日本人というのは、さまざまな難儀や屈折挫折を抱えながらも、奇麗事では済まされない現実を誇りと矜持をもって生きていこうとしている人々である。けなげに生きる者もしたたかに生きる者も死を呼び込まざるを得なかった者もみな、それなりに人として美しく凛々しく描かれている。近年特に、どこか箍が外れてしまい、まるで底が抜けたかのように、日本人から誇りと美意識が欠落してしまったように思えるなかでは、とりわけ清々しく、眩しくさえある。しかし、それが白々しい人間像とはなってこないところが流石だ。しかも、斜に構えて現代の日本人の批判だけをする視座ではなく、ノスタルジックでありながらも、懐古趣味に溺れて現在を嘆くのでもない。日本人ってもっと素敵だったんじゃないか、あの大変な時代でさえも、みんなもっと美しく生きていたんじゃないかということを、「元気を出そうよ、自信を取り戻そうよ」と呼びかけ、勇気づける形で描いている。
 行き詰まりの感覚にとらわれているように見えた主人公恩田圭太が、震災で一面炎上する神戸をTVで見て、空襲の戦火を思い出すところから始まるこの作品は、回想とともに訪れた震災直後の神戸で、記憶のなかの父の雄姿に倣い、港で海に向かって「エイッ、エイッ」と自らを鼓舞するように剣道の素振りをする圭太の姿で終わる。けれども、回想部分に前述のような日本人観が浮かび上がっているので、圭太の記憶にある人々の姿が単に戦火に焼け出された人たちに留まらない普遍性を獲得している故に、この鼓舞が単に神戸の被災者に向けたエールに留まっていないわけだが、そこが製作総指揮の奥山和由が“国民映画”と自負するゆえんだろう。
 篠田監督らしく、丹念に作られた端正な画面は、とても美しく、鳥羽潤がきらきらと輝いていて、観ていて実に気持ちのいい映画であった。
by ヤマ

'97. 5.12. 松竹ピカデリー



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>