『虹のアルバム』
(I Am Furious Yellow...'94/Why Is Yellow Middle Of Rainbow ?)
監督 キドラッド・タヒミック


 今、映画というものが色々な意味で節目となる時期を迎えているなかで、最も新しい映画だと言える作品と出会ったような気がする。山形国際ドキュメンタリー映画祭などで噂には聞いていたが、『僕は怒れる黄色』という実に象徴的なタイトルを持つ一連のパーソナル・フィルムの最新編集版である『虹のアルバム』を高知県立美術館の自主企画として、監督自身のパフォーマンスとともに初めて観た時には、いささか驚いた。

 この映画は、監督・制作・脚本・撮影・編集を自らおこなうタヒミック監督のワン・マン・バンド・フィルムであり、このなかで彼は、マルコス政権からアキノ政権へと移行したフィリピン激動の時代における、三人の子供たちの成長過程と彼自身との関わりを描きながら、家族を見つめ、社会を語り、歴史という時間を問い直しているのだが、個人映画でありながら、実に大きなスケールを持っていることに先ず驚かされる。それは、無論、この映画が世界中のあちらこちらの土地で撮られていることを単純に指しているのではない。非常に高い知性でもって、大きな視点から事物を観ていて、なおかつ、よくありがちな観念的な作品になったりせずに、その視点の焦点を結ぶところが、常に身近で具体的な日常生活の場となっているところが凄いのである。

 これは、タヒミック監督がその知性をいわゆる書斎のなかでの書物や言葉によって形成したのではなくて、世界中を歩き、カメラを携えて自分自身の眼で実際に観ることによって獲得してきたことによるのではなかろうか。それは、すなわち彼が映画のなかでも何度か口にする第三世界的なやり方だということである。

 世界中の各地にカメラを持ち込み、大きなスケールで地球世界を捉えようとした映画ということでは、ヴィム・ヴェンダース監督の『夢の涯てまでも』などを思い起こせば、タヒミックの第三世界的知性が際立っていることがよく判かる。ヴェンダースを例に引くまでもなく、現代が、近代西欧合理主義的な知性を中心として発展してきたなかで、さまざまな分野で行き詰まりを見せていることは、周知の事実と言えるのではなかろうか。むしろ、ヴェンダースは、そういった第一世界的なやり方を脱しようと試みている作家なのである。しかし、残念ながら、いかにも第一世界的な観念性の落とし穴から抜け出すことには失敗をしているような気がする。

 知の世界でも「パラダイムの転換」ということが課題として指摘され、文化人類学が脚光を浴びたり、学問の周縁化がもてはやされたり、パトスの知だとか身体感覚だとかが強調されたりしているが、その意味するところや必要性については、漠然と感じることができても、そのようにして獲得された知性がどんなものであり、具体的に何を指向するのかということについては、今一つピンとこないという感じであった。ところが、タヒミックの映画は、そのような知性を具現化しており、現代の閉塞状況に対する知性の可能性を具体的に示唆してくれているという気がする。

 また、劇映画とドキュメンタリー映画が相互に接近し、乗り入れを図り始めている今日の映画状況のなかで、この映画は、そういった問題に対する一つの回答としてのスタイルを提示しているようにもみえる。具体的には、映画に登場するのが、実際に存在する人物であったり、現実に起こったり、起こしたりした出来事であることを作り手の側も観る側も前提としていながら、この映画では、いわゆる記録映画風にそれらを対象化し、客観視しようとする姿勢を全く見せずに、むしろ、自らの表現としての深い思い入れやこだわりを追及している。そのことは、強い作家的意図によってモンタージュされた映像や演出された場面などに明白に窺えるのだが、そういったところが旧態然とした映画観のもとには、演出過多のヤラセっぽいドキュメンタリー映画のように見えるかもしれないし、あるいは、筋道の分かりにくい散漫としたドラマのように感じさせるかもしれない。しかし、タヒミック監督の『虹のアルバム』は、そのどちらでもありながら、そのどちらでもない、換言すれば、いわゆる劇映画とかドキュメンタリー映画だとかいった部分を越えたところで、映画を作っているのだという気がする。そして、そのことが、今の映画状況のなかで、彼の映画が非常に新鮮で独創的な作品だと見えることに繋っているのではなかろうか。
by ヤマ

'94. 7.27. 県立美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>