『瀬降り物語』
監督 中島 貞夫


 瀬降りと呼ばれる定住地を持たない漂泊の民の生活を描くなかで、邦画には珍しい大きなスケールと様々な問題提起を含む中身の濃い作品となった。具体的には、厳しい自然のなかで、自然と戦いながらではなく、自然とともに、つましく逞しく生きる彼らの生活を描くことで、自然との一体感が稀薄な現代人に自然と人間との関係を問い直しているということである。この作品で描かれる彼らの生活・性・出産・死といったものからは、人間の原存在とも言うべき、自然界のなかでの人間の原点といったものが窺える。その辺りは、今村昌平の『楢山節考』にも共通するところであるが、この作品がそれを越えていると思われるのは、彼らの生活を描くだけではなく、それを支える構造への視点があるとともにそれを脅かす対立構造をも捉えている点である。

 彼らの生活を支えているのは、ハタムラという掟であり、そのハタムラを権威づける、太陽(アヌさん)を頂点とする自然への信仰である。彼らにおいてハタムラは絶対であり、それを守り維持していくために親分(ヤゾウ)の存在を置いている。ヤゾウは、オオヤゾウの下、各瀬降りたちがハタムラを守り、維持させていくために働く。ハタムラ破りに対しては厳しく処罰するが、ハタムラを守る瀬降りたちには相談役であるだけでなく、直接に生活を援助し、保護してくれる頼もしい存在である。それゆえヤゾウは、ハタムラの権威を体現していなければならない。

 ここに集団支配における権力と権威の問題が浮びあがってくる。権威を伴ったハタムラによる支配は、支配というより統治であり、彼らにとっても必要な事柄であるが、その一方、日本国という国家は、彼らにとって単なる権力機構に過ぎない。それは彼らの生活にとって欠くべからざるものではないからである。国家は、大自然のように彼らに恩恵と謹厳さを与えてはいない。だから権威がないのである。ハタムラを維持させるヤゾウは、厳しくても困った時には頼りになる存在だが、国家を維持させる軍隊や警察は、単に恐ろしいだけの権力集団に過ぎない。軍隊や警察がヤゾウより執行力が強くても、ハタムラを破ることより徴兵拒否を選ぶのは、そこに権威の問題があるからである。権威を内に抱く者にとって、権威は権力より遥かに畏れ多いものなのである。

 また、この作品には、ハタムラという厳しい戒律を持ち、自然への信仰を持つ彼ら瀬降りの素朴さと純真さが、その生活様式の原始さゆえか卑しいと差別する一般平民との対照のなかで鮮やかに描かれている。瀬降りたちは、一般平民を素人(トウシロ)と呼び、嘘つきだと軽蔑していて、まるでインディアンと白人の関係のようである。ここに人間の人格と信仰の問題が浮びあがってくる。自らを越える存在としての自然への信仰と戒律が、瀬降りたちの素朴さ純真さを造りあげている一方、平民にも彼らを越える存在として天皇があり、国家があるのに、そこに真の信仰がないから、瀬降りのような素朴さ純真さが育たずにヒエラルキーが形成されるだけなのである。真の信仰を失った宗教や教会制度においても同じことが言える。人間社会が組織化と合理化により整備され、人間自身のものとなっていくほどに、換言すれば進化するほどに人間から信仰心が失われ、却って人間自身はダメになってきているのではないかという問いかけがある。

 特に瀬降りたちの素朴さと凛凛しさは男と女の生き様のなかに顕著で、根は善良ながら軽薄でお調子者だったトウシロの男が、瀬降りの娘の疑うことを知らぬ純真さと一途さに打たれ、また己が優柔不断さ故に娘の母親を集団暴行で虐殺させてしまったことへの自責もあって、トウシロを捨て、国を捨て、村を捨て、瀬降りとして生きることを選ぶラストのくだりは、現代にも通じる人間の生き方を考えるうえでの作り手の率直な回答だとも言える。

 役者としては、萩原健一がはまり役で存在感があり、藤田弓子の熱演が印象に残る。いろいろな問題を提起しながら一番底にあったのは、やはり、男とは、女とは、ということであり、分けても男の男らしさを再認識するところだったようにも思う。なかなかメッセージ豊かな作品である。
by ヤマ

'85. 6.14. 第二劇場



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