『心の香り』(心香)
監督 孫周(スン・チョウ)


 この十年ほど、世界の注目を集めて来た中国の映画の流れのなかで、これまでとはまた一味違う新鮮さを持った作品が現われてきた。一言で云うならば、第五世代と呼ばれる監督たちの気負い立つような強烈な作家的自己主張から一つ抜け出たような成熟さを感じさせる作品である。例えば、陳凱歌の思索の深みを窺わせるシンボリックな映像、張芸謀のダイナミックな色彩感覚で綴られ凄みさえ窺わせる情念、田壮壮のそれまでの中国映画にはなかった対象に向けられた斬新な眼指し、それらはいずれも強烈な異彩を放つことで世界の注目を浴びた。ところが、この作品は、その綿密な構成とよく練りあげられた映像にもかかわらず、非常に洗練されていて声高に主張する映像となっていないために、一部の映像が突出して映画の全体世界の調和を損なうことなく、実にさりげなく穏やかながら確かな手応えでもって作り手の人間観、世界観を「心の香り」として伝えてくる。これはまさしく洗練された成熟であって、作家性の後退などというものとは断じて異なるものである。

 具体的には、この映画は二つの対照的な要素をバランスよく融合させることで、その作品世界の持つ地平を広げ、確かな同時代性を獲得していると言える。北の都会、南の田舎というと何かイタリアを思わせるが、都会と田舎、老人と子供というのもそのひとつである。しかし、もっと重要なのは、京劇や仏教的世界観の継承といった伝統文化を偲ばせる装置が、非常に知的でシャープな現代的映像によって語られているということである。だからこそ、伝統文化的な世界がコンテンポラリーな生きた世界として構成されるのであり、作品が妙に懐古的な説教臭にとらわれたり、お涙頂戴の人情物語になったりしないのである。そういったことを端的な形で示しているのが、エピソードの繋ぎめに繰返し映し出される南の町の俯瞰図である。はじめの頃は瓦屋根の古い街並みとして現われるだけであるが、近景、遠景と経て何度目かには、直前のカットで斜めに切り取った街の路地を子供たちが「ワァーッ」と駆け抜けて行ったのに続いて現われ、俯瞰図のなかでも画面左下方を子供たちが駆けて行く。すると、それまでの無人との対比からなのか、それだけのことで街が生きているという感じが伝わってくる。そしてまた現われる何度目かの俯瞰図では、古い瓦屋根の街並みの向こうに近代的なビルの街並みがぼんやり見えている。観ている側がすっかり南の町に馴染んで、ややもするとノスタルジックな気分に向かいかけるところで同時代性へと引き戻しているのであろう。いずれも実にさりげないのだが、非常によく考えられた必然性によって画面が構成されている。また、京劇は、かなり重要な装置であるにもかかわらず、きちんとした形で京劇の舞台が映し出されることがない。オープニングと終盤の京京少年の姿にわずかに投影されるだけである。このこともまた、この作品が非常によく考えられた必然性による映像展開しかなされていないことの証だと言える。例えば、日本の映画で題材の装置として何かの伝統芸能が取り上げられていたとして、その芸能を延々と映し出す場面を持たずに、このような処理がされることがあるだろうか。こういうことを事も無げにさりげなくやってのけている点だけを取ってみても、孫周が只ならぬ映像作家であることは疑いようもなく、この映画が凡百の説教臭い人情物とは掛け離れた次元で撮られた作品であることも間違いない。
by ヤマ

'93. 7.22. 県民文化ホール・グリーン



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