『アイランド/島々』(Octpoba)
監督 セミョーン・アラノヴィッチ/大塚 汎


 ゴルバチョフのマイウェイ・ドクトリンによる東欧の解放に端を発した民族問題の噴出は、東西イデオロギーの対立という大きな障壁が崩壊したために、より包括的で活発な形で現われてくるようになった。それは、一方では旧ユーゴスラビアのような悽惨な形での激しさを招きもしたが、国連の「世界の先住民のための国際年」を今年迎えるというような大きく開かれたものに至る流れを生み出したりもした。そして、今まさに新たなる今世紀の歴史的トピックスのひとつとしてイスラエルとPLOの相互承認という事態が発生しようとしている。そのような年に日本のパレスチナともいうべき北方四島を日露合作ドキュメンタリーという形でフィルムに納め、しかも単なる合作ではなく両国人の共同監督作品としての誕生を見たことは、それだけでも記念碑的な映画だと言える。ところが、この作品は、その誕生の記念碑的価値に留まらない、一作品としての充実感をも十分に備えている。
 その最大の要因は、北方四島の問題が本質的には条約や国際法上の解釈といった国家間の領土問題などではなく、現島民と旧島民の土地とそれにまつわる生活や記憶の問題であるという核心をきちんと捉えて、日露両国の監督二人が絶妙のコンビネーションで作品づくりを果たしたことにあると言える。土地とは、現島民にとっては、そこに根ざし、生活を営む拠所となる場であり、旧島民にとっては、生れ育った故郷としての記憶とそれを象徴的な形で保証する墓石の存在する場なのである。島を単なる領土として見るのではなく、生活あるいは出自の拠所となる土地としてみる人間同士という地平に立つとき、現島民と旧島民との間には、必ずしも対立ばかりではなく、それぞれの国家の主張の隔絶が馬鹿馬鹿しく見えるほどに確かで活き活きとした交流が生まれ得るし、現実にはその段階に入り始めた部分もあることをこの作品は教えてくれる。無論、現島民にもいろいろな人のいろいろな生活があって、島への入植を後悔し、大陸へ帰りたいと思っている老人もいれば、結婚し、新たなる生活の場をこれから刻もうとしている若者もいるし、彼らのような島の生活への絶望でも固執でもなく、国籍を越えた親善や相互扶助によって共に北の厳しい自然と厳しい生活を共有していきたいと考えている人などもいる。
 そういったなかで単に歴史的経過の解釈によってではなく、そこに住む人々の生活に目を向けたうえで、北方四島の日本への返還をより良い選択としてロシア人に選ばせる時、そこには島々を自国領とし、入植もさせながら、軍事基地としてしか考えず、生活の基盤整備や交通手段の確保にも何ら配慮しようとしなかった政府への憤りが窺える。一方、旧島民の側にも水産資源を安定確保していくためには、むしろ返還されないほうが良いのではないかと考える人もいる。そういった多様な声を複眼的に掬いあげていることに加え、日本かロシアかという以前に、北方四島の先住民はアイヌ人であるということに言及する字幕を入れ忘れない視点の確かさが作品の説得力を増している。
 構成のバランスも、それが意図的な分担であったのか二人の作家の共同監督作品ゆえの幸運だったのかはともかく、結果的に絶妙のコンビネーションとも言うべきものになっている。アラノヴィッチ監督のドラマティックで臨場感のある話法は、『私はスターリンのボディーガードだった』でもそうだったように、強いインパクトを与える一方で、背景や事情をあまりよく知らない者にはある種の解りにくさを残してしまいがちである。ところが、他方で大塚監督が非常に丁寧で適切な歴史的経過や背景の焙り出しを行なっているお蔭でこの作品は、とても解りやすいものになっている。昨今、ドキュメンタリーフィルムにおいて作家性の観点が殊更に重視される傾向のなかで、前者のような部分は脚光を浴びやすいが、ドキュメントの本来的な意味でのベーシックな部分を支える後者的なあり方は、不当に軽視されてはいないだろうか。そもそも作品としては、どちらも共に必要であり、どちらの部分が欠けても不十分なものになってしまうという類のものではなかろうか。この作品の平成編と昭和編の相互補完的な結合のもたらす効果は、そのような思いを誘うとともに一つの作品のなかでそういった結合を可能にした幸福な出会いを祝したい気持にさせてくれる。
by ヤマ

'93. 9. 5. VTR



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