『真夜中の虹』(Ariel)
監督 アキ・カウリスマキ


 先に『コントラクト・キラー』や『マッチ工場の少女』を観ていたので、ある種の信頼感を持って観ることができたが、逆に余り大きな期待も抱いていなかった。しかし、見終えると前記二作を観た時よりもかなり強い興味を抱いた。

 無造作にさえ見える俳優の演技を抑制したスタイルは、ブレッソンを偲ばせるほどに文体[ スタイル ]と呼び得る域にある。しかし、ブレッソンが単に描写としてでなく表現そのものからも徹底的に感情を排することによって観る側の想像力を劇的に喚起させるのに対して、アキ・カウリスマキの作品のもたらすものは想像力の喚起ではなく感情の喚起であるように思う。ブレッソンは、人間が感情の生き物であることを知ればこそ、感情表現によって観客を情緒的に巻き込むことを避け、それによって観客の想像力に純度の高い刺激を送り込むことに成功した。それは確かに非常に論理的な方法論でもある。ところが、アキ・カウリスマキの場合は、感情描写を排しながらも感情表現を行なっているのである。そこで表現される感情とは、感情を排した描写によって観客の内に喚起されるものであり、それゆえに決して登場人物たちに感情移入したり、共感したりすることによって湧く類のものではない。云わば、映画そのものの持つ感情と言えるかもしれない。観客はそれをかなり技巧的に配された音楽と映像によって自らの感情として呼び起こされ、体験するのである。この作品の場合、それはどこか哀しい乾いた切なさであるが、それが移入したり共有したりする対象としての感情ではなく、自身の感情として淡く静かに自らの内に拡がってくる味わいには独特のものがある。

 登場人物たちの感情のほうに眼を向けるならば、彼らは繊細というよりは、むしろ鈍感な人物像を印象として残していく。明らかに繊細さの持つ脆さよりは鈍感さの持つしぶとさのほうが目につくし、それが彼らの救いでもある。彼らの生き様はけっしてひねていないし、やけでもない。仕方なく、あるいは投げやりに生きているのでもない。それなりに健気に生きているのに、どこか鈍臭く間の抜けたところがツキの流れを落ち目に誘い、彼らに生きにくい人生を歩ませてしまう。しかし、それは滑稽さよりもむしろ親しみに繋る。主人公カスリネンは、失職を振り出しに、禍は大きく福はささやかに見事に禍福をあざないながら、次第により生きにくい人生へと向かっていくのだが、ちっともへこたれないし、くじけないし、うろたえない。彼は人生を投げやりもしていないが、執着もしていないようだ。子連れ女のイルメリが家のローンのためにあれだけ働きながら、あっさり捨てていったように。投げやりもせず、執着もしないそのスタンスの取り方はいっそ爽快で見事であって、それこそが冒頭で自殺をした男が「俺は解決法を見つけた。だが、余りうまくはない。真似をするな。」と言って死んでいったことに対する一つの答のようでさえある。この生きにくい時代に生き延びるためには、人間の持つこういうしぶとさに身を委ねてもいいような気がする。そのことをクールに、しかし、優しく教えてくれるところがある種の救いの感覚をもたらすのだろうが、映画そのものの持つ感情は、あくまでどこか哀しく乾いた切なさであるために、その救いもまた何とも言えない色合いを帯びたものとなってくる。

 アキ・カウリスマキが文体の作家であることは先に観た二作によって得心していたが、文体を持つことがそれ自体大変なことを承知のうえでなお、その文体を以って表現しようとしているものが何なのかというところを問題にした時、『コントラクト・キラー』などはいささか物足らない気がしないでもなかった。『真夜中の虹』からすれば、余りに技巧的で見世物めいていたように思う。この作品を観てようやくアキ・カウリスマキが映画で何を表現しようとしているのかが解ったような気がする。
by ヤマ

'92. 4.15. 県民文化ホール・グリーン



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>