『黄金の馬車』(Le Carrosse D'or)
監督 ジャン・ルノワール


 個々の場面に言及し始めれば、切りがない。一言で云うならば、映画の豊饒さというものを堪能させてくれる作品と言えよう。四十年も前に撮られたものとは思えない、眩しいほどに絢爛豪華な色彩と豊かな音楽性、そして、大らかでダイナミックな映像でユーモラスに綴られる物語そのものは、登場人物のキャラクターも含めて極めてシンプルで、けっして新鮮な人間像を提示するものではない。それなのに、その人間像はたまらなく魅力的である。単純な構成と展開なのに、知的な装置に溢れ、人生や人間に関する様々な思いを伝えてきてくれるばかりか、美や創造のダイナミズムまでも教えてくれるのである。映画の持つ豊饒さという外はない。
 なかでも魅力的なのは、言うまでもなく、アンナ・マニャーニが演ずるカミーラであるが、彼女に恋する三人の男たちもまた人間味溢れる魅力を放っている。三人はそれぞれ男性がアピールする属性のある種の典型を体現する存在として登場する。富と権力を持つ貴族の総督フェルディナン、名声と人気の闘牛士ラモン、ハンサムで女好きのする騎士フェリペ。持てるものはそれぞれ違うが、三人に共通するのは、皆それぞれ同時に多少困り者の部分を抱えていながら、カミーラへの恋を通じて、そういう粗よりも魅力の部分が強くなってき、人間的にも成長してくるところである。その前提には、彼らが自負心と誇りを持ち、それぞれの生きる社会的属性による限界はありながらも、その範疇においては実にモラリスティックな人物だということがある。昨今の映画作品ではとんとお目に掛かることの少なくなったノスタルジックな人物像である。そして、それらは勿論、カミーラのキャラクターでもある。いや、カミーラも含めて四人が四人とも自身の演ずる恋模様のなかで目覚めていったものと言うべきかもしれない。その辺りが観ていてとても気持がよく、爽やかである。ルノアールの人間に対する素朴な信頼感と愛情が伝わってくるからであろう。カミーラが三人の内の誰をも選ばないで終わるのがとてもいい。それは全く予想される通りのラストなのだが、全知的存在としての司教に多少の違和感が残るものの、顛末としては観客の予想などとは無関係にあのような形で終わるべきだし、その必然性には予想通りに終わることへの不満など露とも感じさせないだけのものがある。
 社会に対する問題提起や新しい人間像、斬新な美や前衛的な創造、あるいは意外な顛末、それらのもたらす知的好奇心にわくわくするのは面白く、刺激的ではあるが、『黄金の馬車』の贅沢で温かい豊饒さに身を委ねるのも掛け替えのない楽しみである。それは幸福感に満ちた快楽そのものである。作品としては、むしろ前者よりも後者の方が稀有のものだと言える。ルノアールが賞賛され、『黄金の馬車』が傑作とされるのは、そういうことなのである。『大いなる幻影』はまだしも『ゲームの規則』『どん底』『浜辺の女』などを観て、あれほどに賞賛されるルノワールのよさを今一つ理解できないできたが、『黄金の馬車』で得心がいった気がする。彼の最高傑作とトリュフォーが言ったそうだが、もっともなことだ。
by ヤマ

'92. 2.19. 県民文化ホール・グリーン



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