『愛さずにいられない』(Un Monde Sans Pitie)
監督 エリック・ロシャン


 人のアイデンティティとは、例えば、国籍とか性別、職業、社会的身分、家族や人間関係における役割、その他諸々の自らを規定する枠組に何らかの形で帰属することによって保証されるものであるが、与えられたものに帰属意識を持つことで得られるのが幼少期であるなら、青春期とは帰属できる対象を求める時期と言える。しかし、若さゆえの自身に対する潔癖さと真面目さは、往々にして既成のあらゆるものを帰属の対象として素直に受け入れることを許さない。既成の一般的な形で括られるものが、本来一般的であることを拒む個性の総てを許容するはずがないからである。自身に対して真面目で正直であればあるほど、帰属すべき対象が見つからず、モラトリアム的な生き方をせざるを得なくなる。しかし、帰属を留保するということは、それだけアイデンティティが拡散した状態のもたらす不安定さを引き受けなければならず、自由であるかわりに時折襲ってくる強烈な不安に耐えなければならない。一方、何らかの形で既成のものに帰属することを選択した者は、安定を得る代償に帰属したもののもたらす窮屈さを引き受けなければならない。そのジレンマは、現代の若者ならずとも、ほとんどの人が身に覚えのあることに違いない。この作品のイッポが前者であり、ナタリーが後者である。

 しかし、ここで重要なのは、「何かを選べば、何かを失う」という選択行為の真理を多くの人が自身の選択過程のなかでは、その喪失感に堪え兼ねて風化させるのに対して、イッポとナタリーの二人が決してそのように対処する人物ではないということである。そこに作り手であるロシャンの強い倫理観が表われていて、一見した人物設定や恋の情熱といったものとは裏腹に非常にモラリスティックな恋愛映画であるという印象を残すのである。優れて現代的なタッチで描かれながら、同時にモラリスティックであることに成功しているところがとても新鮮である。

 生きる世界が違うかのように見える二人が強烈に惹かれ合うのは、互いがその生き方のなかで自分の選ばなかったものへの思いを風化させることのない人物だからこそである。ナタリーは、エリートへのキャリアを目指す自分の周囲にいる男たちと比べて、同じ土俵に立てば彼らを遥かに凌ぐに違いないイッポのなかに自堕落な生活に甘んじながらも守り続けているものがあって、それが自分がかつて捨ててしまった大事なものだということを直観的に見抜いている。大人になれば、それは捨てなければ生きていけないはずのものだったのに、そうでない生き方を体現しているイッポは強烈な存在として映ったに違いない。イッポにしても、ナタリーがとびきり窮屈な帰属対象を選ぶ勇気を持ちながら、尚且その窮屈さに押し潰されないで、自分が秘かに守り続けているようなものへの共感も失わずに生きていることに驚いたはずである。互いが互いに「(エリートらしくない)変な女」「(フーテンらしくない)変わった男」だと思いながら惹かれ合うのは、そういうことであって単なる一目惚れではない。それでいながら、その生き方の違いは、それぞれがそれまでの人生の帰結として選んだもので、ともに自意識も自尊心も強い者であればこそ、もはや簡単に変えられるものではない。しかし、だからこそ互いの互いにもたらす存在感は一層強烈になるのである。恐らくともに生活することはないであろうが、これっきりで別れられるとは思えない出会いであることをしっかりと焼き付けて映画は終わる。

 それにしても、イッポの人物造形が素晴らしい。真面目に不真面目な生き方をしている男の微妙なバランス感覚の表現が絶妙で、主役のイポリット・ジラルドは、演技を越えた地の部分を感じさせる。多少自堕落な生活を送ったことのある者ならば、それを続けていても特にどうということもなく毎日が過ぎていくことに高を括った覚えがあるはずで、それと同時に高を括っているうちに時折ふと強烈な不安に見舞われて堪え難い思いをした覚えもあるはずである。イッポが二階の窓辺に隠れて女をやり過そうとする時、カメラがぐっと下を向く。決して自殺を心に思うのではないが、底へ底へと落ちていく感覚に捕らわれる時があるのだ。あるいは、留学に旅立つ直前に会いたいと言ってきたナタリーのもとに赴く時、警察に止められ、盗難車であることを咎められ、無抵抗で逮捕される。映画の前半で同じ状況で機転を利かせて無事擦り抜けたエピソードの伏線により、イッポが捕まることを無意識に望んでいたことが判かる。決して女のもとに行きたくないのではないが、行けなくなることを望む時があるのだ。あるいはまた、弟に「大麻の密売はいいが、コカインは止めろ、二度とするな。儲かり過ぎて足が洗えなくなる。」と言う。イッポには、かなり自分本位な言動をとるように見えながら、我侭で身勝手な傲慢さは見えない。これらは総て、通常とは少しずれてはいるが、決して逸脱した異常さを感じさせない微妙で危ういバランス感覚が彼にあるからである。それが自覚された認識としてではなく、感覚としてさりげなく随所に窺われ、しかもその微妙さにもかかわらず極めて明瞭なものとして一貫しているところが実に見事である。なかなかこのように描けるものではない。この微妙なバランス感覚は、通常と少しずれていればこそ、作者エリック・ロシャン監督の固有の感覚であり、しかも倫理感と呼べる次元にまで至っている。彼が既成の借物に帰属してしまうことを拒みつつ、アイデンティティの模索を永らく続けるなかで、充分な検証を重ねて獲得してきた感覚なのであろう。その感覚に拠って立つ時、恐らくロシャンは、この作品と同様に極めてモラリスティックであるに違いない。
by ヤマ

'91. 5.15. 県民文化ホール・グリーン



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