『シェルタリング・スカイ』(The Sheltering Sky)
監督 ベルナルド・ベルトルッチ


 夫婦という最も日常性や生活感と緊密な人間関係において、『帰ることを予定した観光客』としてではなく、旅行者として見知らぬ土地、しかも存在することの時間性と空間性以外には、風土・文化・言語・人種・慣習・規範、いかなる点においても全くの共通性を持たない土地を旅することは、それゆえに総ての夾雑物が剥ぎ取られ、存在の原点として互いが向き合わざるを得なくなることを意味する。キットとポートがタナーという共通の友人を伴って三人で旅している内はまだいい。夫婦関係の危うさへの救いを求め、何かを発見するために出た旅が同時にそのような危険も孕んでいることを本能的に察知しているキットは、夫に対してタナーの俗っぽい意味での危険性に注意を促しつつ、彼を追いやり夫と二人きりになることを恐れる。彼女が車での旅を望みながら、夫との車の旅よりもタナーとの汽車の旅を選んだのもそれゆえであろう。しかし、次第に俗な意味での危険性が現実のものとなり、彼の存在が耐え難くなったポートの算段によって二人はまともに向き合わざるを得なくなる。最初、二人は自転車に乗って荒野を散策するなかで親和性を取り戻したかに見える。そして、広大な荒野を覆う空の下で性の営みを行なう。しかし、愛の確証をその手応えのなかに求めようとする性にはいささかの官能性も帯びてはこない。背景となる荒涼とした岩山が彼らの心象そのもので、そのスケールの大きな映像が素晴らしい。

 男と女が一切の夾雑物を排し、存在の原点としてまともに向き合った時、病んでくるのは、必ず男のほうなのだろう。キットから見れば、他の存在を必要としない自己完結的な人間に見えたポートでさえそうなのだ。腸チフスは実際の病気だが、ここでは象徴に過ぎない。重要なのは、その時懸命に看病するキットの姿に愛が感じられないことである。キットは独りぼっちになる不安と心細さに耐えかねてじっとしていられないのである。ポートへの愛というよりも自分のためである。そして、男は死に、女は生き残る。愛の不在、性の不毛のなかで男は女に伍して生きるだけの力を持ってはいない。この作品にベルトルッチの旧作『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の影を観るのはそのせいである。

 女は男の死後、全くの宛のない天涯孤独の身になってもしたたかに生き抜く。しかも皮肉なことに、アラブの隊商の名も知らぬ男に囲われて過ごすセックスには豊かな官能性が醸し出される。前段のポートとの性の営みと極めて対照的である。愛の不在の時代において、今や官能は愛の存在を不問にしたセックスのなかにしかない。そのことを知り、女に伍して生きる力を持つ男の存在しないことを知ったキットが、何か月も自分を捜し、やっとの事で見つけたタナーが待っていると聞かされても、彼のもとに真直に行けないのは当然のことかもしれない。「迷っているのか」と聞かれ、「ええ」と答えるキットに「人生を左右するほどの経験も、振り返って何度も思い起こすものではない。機会というものは無限にありはしない。何度でも試したらいい。それが人生というものだ。」と語り掛けることにどれほどの意味があるのか。手足に施された入れ墨以上に彼女の認知した実存の厳しい孤独は、その心のなかに深く刻み込まれているのに違いない。

 荒寥とした果てしない砂漠を旅する昼夜の繰り返しの映像は、まるで人生の営みそのままを美しくかつ厳しく描き出していて絶賛に値する。更にこれだけ人間の手の入り尽くした地上にまだ果てしなさを描き得る土地が存在することに敬服しないではいられない。近年、そういうイメージは専ら宇宙に対して求められているが、地上の風景でそれを為し得るベルトルッチは流石である。広大な砂漠を前にして、安直にカメラをクレーンで持ち上げて砂漠の広がりを納めようとするのではない。それでは所詮、カメラの射程のなかに広大さを切り取っただけで果てしなさとは別物になる。ベルトルッチはむしろ逆に砂漠の丘陵を下から撮り、空を映し出す。太陽が照りつけ、風が砂紋を描き、月の光が照り返す美しさのなかに寂寥感を呼び起こす。その寂寥感こそが果てしなさのイメージなのである。見事というほかはない。




*参照テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/taidan/berutorutti2.html
by ヤマ

'91. 4.25. 高知松竹



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