『光と影のバラード』
監督 ニキータ・ミハルコフ


 活劇としては、可もなく不可もなくといったところかもしれないが、活劇の舞台が革命戦争の只中ではなく、その後の社会の創設期であるところに興味を覚えた。冒頭、新世界建設を高らかに歌い上げる『船の唄』とともに「平等だ!」「友愛だ!」「平和だ!」と叫ぶ若者が戦争の終りを告げるシーンからこの作品は始まる。しかし、革命戦争の終結がそのまま理想の実現を保証するはずもなく、翌日から武器をペンと算盤に持ち替えて、革命の闘士から行政事務官へと姿を変えての悪戦苦闘の日々が続くのである。
 戦時と平時の社会の要求するリーダーとしての資質の違いというのは、何もロシアに限ったことではない。アメリカにも、その変化に取り残されていく戦時の英雄の物語として『パットン大戦車軍団』などという作品もあった。しかし、ロシア革命においては、そのずれが個人の違和感として以上に社会の矛盾としてより強く残っていったのではなかろうか。何故なら、ロシアには、社会建設の主体を担い得る中産階級が形成されておらず、戦時のリーダーがそのまま戦後の社会建設のリーダーをも果たさざるを得なかったからである。中産階級が形成されていない前近代性こそが、所謂西洋型のブルジョア市民革命ではなく、プロレタリアートによる共産主義革命を可能にした条件でもあったことを考え合わせると、ロシアだけでなく共産主義革命を成し得た他の国々も同様で、その後の国家建設の苦難に共通する課題として興味深い。言うまでもなく、優れた戦士は往々にして優れた事務官にはなりにくい。苦手な仕事を嫌々するのだから、恐ろしく能率を欠く。しかも、能率性で以て淘汰するシステムは、共産主義体制では制度化されにくい。非能率が当然のこととして定着してしまったのである。それ は、今に至るソヴィエト社会の重大な課題なのである。

 山のような書類を前にして、「貸方に借方、それに差引残高、ああもううんざりだ。」とろくに仕事をしないアンドレイ。彼は事件後、盗賊団討伐隊の騎馬隊長になると、途端に眼を輝かせ、活き活きと出陣の演説をぶつ。アンドレイほど素朴ではなく、役割意識も強い眼鏡の男は、疲れた汗を流しながらも書類に付き合うが、「これも大事な仕事なんだ。しなければならないことは、山のようにある。それにしても、これじゃ書類で出来た墓場だ。」とぼやく。この辺りには、初期のソヴィエト社会の素朴な苦労が窺えて面白い。彼は、冷静で責任感が強いだけに戦時と平時の果たすべき役割の違いを充分認識して、戦士から事務官に変ろうとしているのだが、その課題の大きさにいささかストレス過多に陥っている。保安委員会のメンバーとして、同志シーロフに特命派遣をさせるべきか否かを決定すべき会合においても、個人的信頼感とは別に立場的な意思表明を考えて棄権してしまい、「君に投票できなかった。」と後でシーロフに申し出ずにはいられないし、保安委員会のメンバーをやめたいとアンドレイに告げたりもする。会合において、「シーロフが信頼できる同志であることは、私が保証しよう。」と言ってけりをつけた背広の男は、眼鏡のようなぎごちなさに悩まされることなく、戦時から平時への移行のなかで、比較的無理なく身の置き所を変えることのできつつある人物である。
 時代の流れとその変化のなかで人々は、それぞれ適応を果たしていくものだが、そこには自ずと様々なレベルが生じる。それは、共産主義だろうが資本主義だろうが同じ事である。こうして最後の場面では、図らずもアンドレイは馬に乗り、眼鏡や背広は運転手付きの自動車に乗っている。しかし、彼らは、シーロフの回想に何度も出てくるように、革命戦争が終結した時は、同じレベルで、同じ気持で抱き合って喜び、農奴を苦しめた地主階級の象徴としての立派な馬車を一緒に坂から突きこかして壊した同志なのである。最後の場面で、アンドレイと眼鏡と背広がシーロフのもとに駆け寄るなかで、その壊れた馬車にダブらせて、ドアも開いたまま乗り捨てられた党委員会のメンバーの乗る自動車を映し出すミハルコフの意図は何なのだろうか。その意味でミハルコフが主人公として描いたシーロフの人物像が示唆に富む。

 彼は、他の人々が状況の変化とともに適応を求めつつ変っていくなかで、原点の共感にこだわり続けた男である。だから、その時の思い出が何度も回想として蘇えるし、同志の死に対する痛みや掛替えのない同志からの信頼が得られないことへの寂しさ、あるいは同志の血と命で成し遂げた革命に対する裏切り行為への怒りは、人一倍強い。それへのこだわりからすれば、新世界の建設に対する使命感として自己に課するものは、眼鏡や背広ほどではない。シーロフにその気があれば、あれだけの機転と行動力に、人の心を掴むすべを身に付けた人物が委員会で中心的な役割に就けないはずはないのである。そういう面では、過去に曳き摺られ、未来を描いてないと、彼は責められるのかもしれない。しかし、時代の変化に対処し、ぎごちなくか無理なくか、あるいは仕方なくか、変りゆく人物たちにシーロフのような言葉が吐けるだろうか。国境を目前にした誰もいない所で金貨の山分けを唆され、この目の前にある大金をどうして皆に分けなきゃならないんだと言われて、「お前は、あの地主たちのようになりたいのか。」と。原点の共感にこだわり続けるからこそ、原点の理念も純粋な形で保ち続けられるのである。
 シーロフのような人たちは、決して自動車に乗ろうとはしないし、また乗れる立場にもなれないであろう。共産主義であれ、資本主義であれ、確かに社会の建設には、眼鏡や背広のような人達が必要なのかもしれない。そして、彼らが社会のリーダーになっていくわけだが、その社会の根底を支えているのは、そういう素朴で掛替えのない感情とともに、その社会を構成する理念を純粋な形で保ち続ける名もなき人々なのである。それが決して忘れられてはならないことながら、常にないがしろにされることでもあることを知るミハルコフにとって、その象徴としての委員会の自動車は、地主の馬車にダブらせずにはいられなかっただろうし、また、国家が政府を擁して体制を築く以上、自動車に乗る人々が生まれずにはいないことを知ればこそ、自身が自作に出演する際に、無政府主義的な盗賊団の首領として出演したのだという気がする。

 キネ旬増刊の『世界映画作品・記録全集1983版』で、映画評論家の佐藤忠男氏がこの作品について、「イデオロギーはほとんど関係なく、純粋にアクションものと言っていい。」としたうえで、「どんなに仲間を疑っても結局は信じる、というあたりに」若干の体制批判とメッセージを読み取っているが、現実の党の同志間の無残な疑心暗鬼に対する批判など以上に、体制を越えた普遍的な社会観が窺えるし、そういう面で最も重要な場面は、最初の「革命をともに戦った地方委員会の仲間の戦友愛、同志愛」の場面ではなく、馬車と自動車をダブらせた最後のほうの場面にあると思われる。



推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://members6.tsukaeru.net/sammy/archive/stranger.html
by ヤマ

'90. 4.27. あたご劇場



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