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『ふたりの駅』(Vokzal Dlya Dvoikh) | |||||
監督 エリダール・リャザノフ | |||||
この世に、人として生れてあることを喜びとして感じさせてくれるような映画である。複雑な心理の微妙さを繊細な感性で捉えるという今風のスタイルとは対照的な、素朴な心の機微を温かく掬いとった作品で、癖もアクもなく実にオーソドックスなスタイルが却って新鮮で、気持の良い余韻を残してくれた。 馴染めない間柄の二人が、仕方なく関わりを持つうちに生れて来る心の交流をコミカルなエピソードとともにほのぼのと描くという展開は、異性と兄弟という差はあれ、先頃アカデミー賞を受賞して話題になっている『レインマン』とも似ている。しかし、その捉え方・描き方には雲泥の差がある。『レインマン』の二人の心の接近は非常に直線的で、しかも、映画がその接近を点でしか表現できていないために、二人の心の間の距離は、場面を重ねる毎に座標軸の整数値の上を移動するようにして真直に接近していくのが判かるだけで、心に動きや流れが感じられない。『ふたりの駅』の場合は、その動きや流れが往きつ戻りつしながら、連続性を持った螺旋状の曲線として描かれているから、生き生きとした情感を与えてくれるのである。 しかし、この作品が駅での別れの場面で終わる構成になっていたとしたら、良くできたオーソドックスな恋物語だというに過ぎない。人生のある何日かの眩しい思い出として恋を語る作品は、例えば、『終着駅』などを思い出すまでもなく、既に何度となく映画の語ってきたところであり、映画の古典的な類型の一つとして確立しているジャンルである。旅の途上という日常生活から離れた場面での数日間という短い時間においてこそ、恋は純化し、眩しいほどの美しさでもって語り易く、時間のスパンが長引き、現実生活の要素が加わってくるほどに、その恋を眩しいほどの美しさだけで語ることが難しくなる。恋の現実がそうであり、観客を説得できなくなるからである。従って、このジャンルの恋物語において一つのピークを迎えた後をも語るのは、作り手からすれば、かなり危険なことで蛇足だとか失敗になりかねない。しかし、リャザノフ監督は、オーソドックスなスタイルを踏襲しつつも、敢てそこに挑んでいる。この作品のハイライトは、互いに要領が悪くお人好しなために人生の割を食ってきた二人が、駅で恋に巡り逢い、駅で別れたその後にくる。妻が面会に来ているとの知らせで刑務所か らの長い道のりを夜中に独り歩いている時の回想として駅での出来事を語らせ、ファースト・シーンを刑務所の夜間点呼の場面にしているのもそのためであろう。 それが功を奏するか否かにおいて非常に重要な場面が、面会に来ていたのが妻ではなく、駅で知り合ったヴィエラであることが判かる再会のシーンである。万感の思いに表現する術を持たない二人の有様を淡々とした無言の演技のなかで見事に語っている。その無言の雄弁さに打たれるほどに、最初に発せられる言葉がいつでどちらの側の何になるかが気になってくる。果たしてそれは、プラトンがヴィエラの用意した料理を黙々と食べながら、ふと手にしたハンバーグを「焦げてるじゃないか」と穏やかに言う科白であった。総ての回想劇の部分は、この再会の場面のためにあり、この場面が力を持ち得るかどうかは、回想劇の出来によるのである。そして、この場面が絶妙だったからこそ、一夜を過ごし寝過して約束の時間に刑務所に戻れず、塀を目前にしながら力尽きて歩けなくなり、朝焼けのなかで凭れ合うように坐り込んで懸命にアコーディオンを弾く二人の姿が鮮やかで美しいのである。ラストで二人のシルエットを捉えていたカメラが路上に沿って猛スピードで引いていったのは、何か取って付けたようで画竜点晴を欠くといった感を残したが、リャザノフ監督の試みを損なわせるほどのもので はない。 それにしても、この作品に登場する人物たちの表情の豊かさと温かみは、どうだろう。ヴィエラとプラトンの二人は、言うに及ばず、車掌のアンドレイやヴィエラの同僚ウェイトレス、刑務所の所長に至るまで人間の素朴な存在感に満ちている。際立った顔立ちや容姿ではなく、表情の豊かさと説得力がこういう映画での役者の命であることがよく判かる。そういう作品だったからこそ、一見オーソドックスなスタイルの恋物語でありながら、かつての名作たちが与えたような遠い憧憬ではなく、身近な夢を与えることができたのであろう。身近な夢を安っぽさやお伽話に堕することなく語るのは、ある意味では、遠い憧憬を語ること以上に難しいかもしれない。しかも、数日の思い出として語らずに描いたリャザノフ監督は、相当の力量を持った作家である。 | |||||
by ヤマ | |||||
'89. 4. 1. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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