『モニカ』(Sommaren Med Monika)
監督 イングマール・ベルイマン


 この作品の見所は、チラシに記されていた「夏と青春への哀惜の情」とか「自由を求める若者の叫び」とかにあるのではない。ストレートに表現されたベルイマンの女性観の原形とも言うべきものとその表現の仕方が興味深いのである。つまり、男にとって激しい憧憬の対象であるとともに、度し難い不可解さを体現する存在としての女である。男性は多かれ少なかれ、女性のそういう部分から強い快と不快の感情を受けながら、翻弄されるものなのである。ベルイマンが若者を主人公に選んだのは、青春への哀惜の情もあろうが、それ以上に、若者のほうがそういう女性観を表現するうえで、より純粋にまた普遍化した形で描き易いということがあったのではなかろうか。実際、モニカは、映画のなかでも観客の目にも、強い個性を持った際立った存在として描かれているにもかかわらず、尚且、そこには、女性性への普遍化されたものも同時に込められていて、モニカに固有の独自のものとしてだけ描かれているのではない。ただ単に個性的なだけの存在でしかない場合は、同化できないと関心の対象として惹かれようもなくなるし、普遍化に偏り過ぎると生きた人間としての存在感やインパクトを失って、観念的になってしまう。個性化と普遍化を同時になし得る表現というのは、やはり相当な水準であるといわねばならない。モニカに扮するハリエット・アンデションの素材としての魅力と相まって、淡々とした描写であるにもかかわらず、特にハリーに感情移入をするわけでもないのに、彼の覚えた眩しさも苛立ちもハリーのものとしてだけでなく、自らのもののように伝わってくる。がっぷり四つに組んだら、男は女に到底叶うものではないのである。

 それにしても、ベルイマンの容赦のない眼には、いつもながら感心させられるところである。モニカの存在をあれほどの眩しさと煌きをもって描きながらも、何とも度し難いものとしてもまた強烈に描き出している。その眼指しは至ってクールであるが、ブレッソンのように決してドライではない。むしろベルイマンは、センティメントの人である。後に彼が、女性にしろ神にしろ、存在に対して向けていた容赦のない眼を、親子にしろ夫婦にしろ、関係のほうに向けたサイコドラマティックな作品を数多く手掛けることになるのも、それ故のことであろう。しかし、センティメンタルでありながら、クールでもある存在というのは、どこか空恐ろしい気がする。
by ヤマ

'88. 7.22. 県民文化ホール・グリーン



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