『肉体の悪魔』(Diavolo In Corpo)
監督 マルコ・ベロッキオ


 主演のマルーシュカ・デートメルスが素晴らしい魅力を放っているにもかかわらず、作品としてのインパクトが弱いのは何故なのであろうか。レーモン・ラディゲの原作を現代に置き換え、出征中の兵士であった夫を、捕えられ転向させられたテロリストである許婚者に換え、原作にある倫理的抑圧と個人的自由の問題に、権力や社会性といった視点を採り込もうとした意図は意欲的で、作家としての主体性も窺えるのだが、作品のなかでうまく活かされているとは言い難い。

 また、倫理的抑圧の殻を破り、個人的自由を実現することが、人間性の回復であるという原作の持つ主題も、その本質においては、いささかも古めかしいことではないのであるが、現代のように倫理性が稀薄になってしまった状況のなかで、あえて設定を現代に置き換えたために、返ってインパクトが稀薄になってしまったような気がする。作者の意欲が、空回りないしは逆効果になってしまっているわけである。同様に、女の父がテロリストによって殉職させられた人物であることや青年が哲学を学ぶ学生であること、その父親が精神分析医であることなども設定としての興味深さにだけ留まっていて、ほとんど効いていない。そういった次第であるから、打ち破るべき倫理的抑圧からの解放の原動力になるものとして肯定されるべき官能による情熱や狂気の描き方が、何か取って付けたようで説得力に欠けるのである。

 作品がそのようなものになるという予感は、映画の前半で既に与えられてしまう。オープニング・シーンで、狂気と死に関するパスコリの詩についての授業が現われ、続いて狂気に捉われたかのような下着姿の黒人女が、屋根から投身自殺をしようとする顛末が描かれる。そこで青年アンドレアはジュリアと出会うのであるが、このいかにも思わせ振りな、持って回ったような導入部で、いささか気が滅入る。さらに、その後まもなく現われる法廷での場面で、テロリスト・グループが入れられていた檻のなかで、何故か突然、一組の男女がセックスを始めるのだが、廷吏に制止されるのを見て、ジュリアが初めて会ったアンドレアにしがみつきながら、「最後までやらせてあげて!」と叫ぶシーンに至っては、最早笑止以外の何者でもない。それでジュリアが、性愛と官能を積極的に肯定している女性であることを示しているなどというつもりかもしれないが、もしそうだとすれば、呆れたものである。

 アンドレアがジュリアの部屋に忍び込もうと、ロープをよじ登る月夜のシーンは、その美しさにハッとさせられるのだが、いくつか散見する映像の印象は良くても、作品としての出来は不充分である。しかし、そういって切って捨ててしまうには惜しいところが一つだけあって、それが即ちマルーシュカ・デートメルスの存在である。彼女の魅力は、忘れ難いものとして強烈に残っている。だが、それとて、ベロッキオの功績によるものという印象よりも、彼女自身が持っているものとして印象づけられる度合いのほうが遥かに強いのである。
by ヤマ

'88. 2.25. 名画座



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