『風が吹くとき』(When The Wind Blows)
監督 ジミー・T・ムラカミ


 この映画は、ある日突然、核戦争下に置かれ、被爆する老夫婦の姿を淡々と描くなかで、核の問題を訴えた作品であるが、これを観て、核兵器の怖さとか反核、あるいはパワー・ポリティクスの空しさといったテーマしか受け取らなかったとしたら、作り手の意図の半分も伝わっていない。

 主人公のジムとヒルダの老夫婦が、微笑ましくも愛すべき庶民であることに、共感を覚えない者は少なかろう。しかし、同時に、彼らのあまりにもの無知さ加減と常に何かを当てにしている依頼心の強さには、いい加減うんざりさせられるはずである。世界大戦を経験し、新聞・ラジオを通じて国際情勢にも関心を持っているとの自負もありながら、ジムの核兵器に対する無知や政府に対する、自国民を見捨てるはずがないということへの盲目的な信頼の深さは、驚くべきほどであるし、ヒルダのそういったことに対する無関心さもまた、呆れるほどである。ジムは核時代の戦争の恐ろしさをヒルダに教えながらも、子供騙しのシェルターで生き残れると信じているお粗末さだし、ヒルダは、被爆の恐ろしさよりもカーテンや壁紙のほうが気懸かりな鈍感さである。

 しかし、そういった二人であればこそ、政府にとっては最も善良な国民だったのである。彼らの善良さについては異論はないが、それゆえまた、彼らは愚かなのである。しかし、ジムとヒルダを愚かだと言い切れるほどに我々は賢明であろうか。放射能を浴びて、死に瀕しながら、ジムが「明日、…へ行って…を買ってこよう。大丈夫だ。」とヒルダを慰める科白が何度も出てくるのは、まことに象徴的である。明日で良いのか、何かを当てにしていて大丈夫なのか。彼らの安易なオプティミズムに対する疑問と苛立ちは、そのまま、核の時代に生きている我々に返って来る。明日ではなく今、誰かではなく自分が、何とかしなくて良いのか。他人事、他人任せでいる者に、ジムとヒルダの愚かさを言う資格はないと…。

 今や、核兵器そのものの恐ろしさをいくら描いても、我々には、さほどコワイ作品ではない。我々自身の安易さ、無自覚で頼りないオプティミズムを突いてくるこのような作品のほうが、遥かにコワイのである。そういった点も含めて、この作品を何の衒いもなく称賛できる者が、一体どれだけ居るのであろうか。

 おそらく作者は、我々がこの作品を観てジムとヒルダに対して覚えるじれったさ以上のものを人類に対して感じているのである。ヒロシマ・ナガサキを歴史的体験として得ていながら、人類は、何故それを教訓とし得ないのか。ジムとヒルダを通じて、作者は、我々一人一人の自覚と責任を穏やかに、しかし、厳しく問うてきているのである。
by ヤマ

'87. 8.12. 松竹ピカデリー



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