『コーラス・ライン』(A Chorus Line)
監督 リチャード・アッテンボロー


 人間の肉体の持つ美の素晴らしさをその溢れるエネルギーと躍動感とともに、改めて認識させるのは、よくできたミュージカル映画やダンス映画の常ではあるが、この作品においても最大の取柄はそこであり、同時にそれは、それ以上のものを目指した意図は見受けられながらも、その点については、残念ながら成功しているとは言いがたいということでもある。

 ショー・ビジネスにとりわけ思い入れの強い者なら、自身で補って余りある奥行を感じさせ得るだけの端緒となる部分はあっても、それほどでもない者には通用しない程度にしか、ショー・ビジネスの舞台裏が描かれていないし、個々のダンサーたちの抱えているドラマ性も頭で感じさせる興味深さに留まり、心にまでは迫ってこない。『コーラス・ライン』という作品がその名を高らかに誇っている最大の理由は、歌と踊りの素晴らしさもさることながら、その背後に見えてくる個々の人物たちのドラマ性の奥行なのである。

 映画『コーラス・ライン』がその点において今一つ力不足でしかなかった最大の理由は、役者の演技力や演出といったところにあるのではなく、映像メディアと生のステージという、言わばコピー文化とオリジナル文化との質的ギャップにある。映像メディアがその特性を活かしてインパクトを持つのは、肉眼では経験し得ないような、ある時には丹念で細密な、またある時には壮大で華麗な映像を現出させるからであり、ステージの持つインパクトは、いわゆる生の迫力というものである。ステージでは、その生の迫力により、わずかな端緒を提示するだけでもかなりの奥行を持ったドラマ性を創造し得るが、映画において同じ形で描いてもそれだけの効果は期待しにくい。映画では映画の、また違った形での創造の仕方をしなければならない。リチャード・アッテンボローは、かなり練りに練って、考えに考えて映画化していて、その苦心のほどは随所に見受けられるのだが、結局のところ、ステージのかの『コーラス・ライン』というものに少し囚われ過ぎたというか、それから抜け出ることができなかったということなのだろう。それはまた、それほどにステージ『コーラス・ライン』は、凄いということでもある。
by ヤマ

'86. 2. 6. 松竹ピカデリー



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