『声なき群唱』
監督 山本 謙一郎


 人間にとっての最大の喜びは、共感と協力によってなす共同作業にあるという当り前のことでありながら、70年代以降、ちょっと口にしにくくなっていることを真直に表現した作品である。本来そういった共同作業として最も有力であり、意義深いものであった "運動" が、70年代以降ほとんどその力を失ったなかで、今最も説得力を伴っているのは、芝居ないし劇団活動ではないかと思う。芝居には、共同作業としての意味以前に、そのもの自体が持つある種のパワーがある。その点では、今やその力を大分失っている "運動" にも似ている。加えて運動以上に、裏方にしろ、役者にしろ、直接的身体作業を伴っている。こういう芝居というものによる共同作業のもたらす充実感と喜びは、ほとんど麻薬的ですらあるように思える。さらに、彼らの劇団活動が個人的名声を求めてとか、金銭的成功を目指してとかいったものではなく、より理想的意義づけをなし得るものである場合、その力は飛躍的に増大し、各人に熱いエネルギーをもたらす。
 最初は、様々な動機で様々なレベルで集まった素人集団が、芝居の稽古上演のなかでなす共同作業により、熱っぽい緊密な仲間となっていき、さらには、聾唖者にも共感でき、体感できる芝居をという意義深い目標を得て、劇団としても充実したものになっていく。現在において、こういった劇団活動の存在を知らせることもまた意義深いことである。作り手にもそういった思い入れのあることが感じられる。ドキュメンタリー・タッチで描いたこの作品が、劇団員達の青春群像として一貫した視点を保ち得たら、もっと素晴らしい作品になったであろうと思われるのだが、その視点が時に劇団主催者の大原氏にのみ傾いてしまったり、障害者問題を浮び上がらせるなかで視点が散漫になってしまうのは、残念ではあるが、作り手に思い入れがあればこそであろう。そういった点からは、作品としての出来がそれほど高くないにもかかわらず、観る者の胸を打つものがあるのもまた、作り手に思い入れがあるからこそであろう。何やら『お葬式』と対照的な映画である。
 それにしても、後半、大原氏個人がクローズ・アップされ過ぎたのが惜しまれる。意義深い共同作業を得て、生のエネルギーに燃える、青年・中年の青春群像としての視点を貫いてほしかった。
by ヤマ

'85. 3.23. 高知新聞会館



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