『キリング・フィールド』(The Killing Fields)
監督 ローランド・ジョフェ


 ピューリッツァー賞を受賞した米人ジャーナリストとその助手を務めたカンボジア人通訳の苛烈な体験と友情を描いた実話に基く作品。カンボジアを戦乱に巻き込んだ最大の責任が米国にあることは、この作品で語られるまでもなく明らかになっていることで、その状況でカンボジア人のプランが米人ジャーナリストのシドニーにあれほどの協力を示すのは、不自然だとも思われるが、プランにしろシドニーにしろ、彼らが国籍を越え、身の危険を押してまで、あのような行動をとったのは、政治的立場とか民族的立場以上のジャーナリスト精神ゆえであるということなのだろう。とはいえ、クメール・ルージュによる革命遂行の中での危険度からすれば、外国人であるシドニーと現地人であるプランは、同等ではなく、それゆえプランは、より過酷な体験をする。そして、シドニーは、そのことで相棒のカメラマンに責められるし、自らも苦しむこととなる。しかし、プランは、辛酸を嘗めながらも辛くも生き延び、カンボジア脱出に成功し、シドニーとの再会を果たす。

 それにしても、凄じい戦争の惨劇ではある。これでも随分抑えて作ってあるというから、その実情は、想像を絶するものがあるのだろう。この過酷さがあるからこそ、プランとシドニーの再会が感動的であり、コピーにある通りに“生きてることは美しい”と素直に思ったりさせられるのだが、この作品、そういった意味での映画的成功は是としても、ちょっと疑問が残る。

 これは、過日、『危険な年』を観た時もそうだったのだが、アジアを舞台としてアジアを描きながら、視点も感情も常に米国の側に立っているのだ。カンボジアの内戦の責任は、米国にあると明言しながらも、直接的に描かれる戦時の非人間性は、専らクメール・ルージュの側であり、また彼らを如何にも野蛮人的に描いているところなど、明言した部分はないものの画面だけ追えば、まるで反共映画である。そうしてみると、米国に最大の責任ありと明言している部分までが、如何にも自身の内部告発力を誇っているだけのことにも見えて、胡散臭くなって来る。その点、プランを描きながら、主人公をシドニーに置いてある映画の構成そのままに、なんかしら欺瞞的な気もする。

 プロデューサーは、「政治的立場には関心がない。人間ドラマだ。」と言っているらしいが、どうも前述のような批判は、免れ得ないように思われる。とすれば、露骨でない分だけ、人間ドラマとして優れている分だけ、巧妙でタチが悪いとも言える。でも、そう言って、切って捨ててしまうには、ちょっと惜しい、緊張感と迫力に満ちたスリリングな映画でもある。極めて大雑把に「戦争って嫌だな、政治って怖いな、生きて ることは美しい。」とだけ受け取った方が救われるかもしれない。
by ヤマ

'85.10. 8. 東映パレス



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