『コンフィデンス・信頼』(Bizalom)
監督 サボー・イシュトバーン


 反体制運動ゆえに身を隠さねばならなくなり、伴侶も家庭も、自分の名前すら奪われた身も知らぬ男と女が偽装夫婦となる。この特異な設定の中で、人と人との関わり、特に男と女の繋り、愛情、絆、信頼といったものの持つ意味が鮮やかに浮び上がってくる。この設定の巧みさのポイントは、それが当人達の自由意思によって選ばれたものではなく、状況によって追い込まれたものである点にある。人と人との出会いを設定するに、これほどに緊張と不安に満ちた、孤独でしかも逃れようのない出会いはあるまい。そこには、凡そ人間的な何かは存在の余地がない。しかし、その無を有に変えることが人間には出来る。そこが物理とは違う人間の奥の深さである。その原動力となるのが孤独からの脱出本能であり、実現の鍵となるのが信頼と愛情なのである。この映画ほどそのことを純粋培養的に顕示している作品は珍しい。

 孤独から逃れようとすることが人間の本能的な行動であるということを示すのに、この特異な設定によってもたらされた孤独の厳しさが説得力を持っている。人間的な心の安らぎの拠所としていたものを一切剥ぎ取られ、敢て別人として生きることを強制され、身も知らなかった異性との共棲を強いられる。しかも常に正体が知られてはならぬことを強迫されるのである。そのことによって生れる孤独は、只の孤独ではなく、落差をもって急激に突きつけられた孤独である。しかも不安と緊張に精神が間断なく責められる。その痛ましさは、そうまでして生き延びて、それほどに気を配ってびくびくして、それで一体何の生きる意味があるのだろうと思うほどに悲惨なものなのである。それゆえに、孤独からの脱出が本能的性質のものだと感じられるのである。ここで面白いのがそういった本能的な行動をとる場合、先鞭を取り、行動力と意思を見せるのに長じているのが女の方であり、男はまず懐疑的であり、保守的になるということである。我が身を隠し通すためには誰にも心を許してはならない、油断してはならないという状況の中で、同じ境遇の二人は信じ合い、助け合っていいのではないかというの は至極当然のことなのであるが、「誰にも」と思い込んでいる者にとっては、発想の転換が求められるのである。細心の注意を払い、警戒を怠ることなく地下生活を送るということでは、男の方が長じており、そういう点でそれまでの生活においては彼がリードして来ていたのであるが、次第に位置関係が逆転して来るのである。更に、それぞれ互いに深い愛情で結ばれた伴侶がいて、今は離れ離れになって身も知らぬ異性と暮さざるを得なくなっているということに対しても、女は、最初他人であったとしても何故いつまでも他人でなければいけないのかということを突きつけて来る。ここでも男の方が人と人との関わりを基本的には一対一のものであると捉え切れていないため、迷いや狼狽を見せ、無様である。女の方は、現実の必要性に対して正直である。絵に描いた餅を食べて生きていくことは出来ない。

 こうして二人の男女は、互いに愛情と信頼を築き上げていく。これらは当初、全く当人達の意志によって始められた作業ではなく、むしろ状況によって或は運命によって辿らされたことである。しかし、実に自然であり、それどころか、むしろそうあるべきだと思わせるものでもある。それはこの中にこそ、人にとっての愛情だとか信頼だとか言ったものの持つ意味が説得力をもって表われているからであろう。その意味とは、それらは人をどうしようもない孤独や緊張、不安から救い出し、人間らしく生かしてくれる基盤であるというごく当り前のことなのである。作品中、男が離れて暮している愛妻を夢見て、その中で彼女が「もう私はあなたに必要じゃないの」と語りかけるのだが、人にとっての人、特に異性の必要性を考える上で、この作品はとても興味深いと言える。

 そしてラスト。状況の変化に対応して鮮やかに転換できる女に対し、またこれまでのいきさつに捉われ、現実対応に後れ、取り残される男。ここでも男は、女には叶わないのである。
by ヤマ

'85. 4.23. 名画座



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