『善悪の彼岸』(Beyond Good And Evil)
監督 リリアナ・カヴァーニ


 ニーチェにしてもルー・サロメにしても、その人物や生き方は、興味深く、心惹かれるものであるはずなのに、それが全く伝わってこないのは、どうしてなのか。
 第一にこの作品には、知性が欠けている。十九世紀の世紀末を生きたインテリのなかに顕著なデカダンスや男性のなかの女性性、女性のなかの男性性といった、性の両性具有的側面から人間を捉えようとした意図は良いのだが、それらを表現するうえで焦点が情念に傾き過ぎ、良きにつけ悪しきにつけ、当代きってのインテリだったニーチェやサロメらが人として浮び上がってこない。
 次にリリアナ・カヴァーニの性に対する関心の歪みか、もしくは表現のまずさというものが挙げられる。『愛の嵐』でもそうだったが、せっかくの好材をこの監督が作品にすると安直でセンセーショナルなだけの底の浅い描写に終ってしまう。ただ好材をキャッチしてくる嗅覚はたいしたもので、その眼のつけどころの良さだけでもって勝負しているに過ぎないような印象だ。今回にしても、この題材でこのモデルなら、もっともっと面白く深みのあるドラマを作り得たような気がしてならない。ルー・サロメは、軽薄な娘が背伸びして突っ張っているようにしか見えないし、ニーチェは、愚鈍なだけだし・・・。男のなかの女性性とは、もっと可愛らしく、女のなかの男性性は、もっとかっこいいものなのだ、少なくとも、それがそこそこ一人前の男であり、女であれば。彼らがそういうふうに描かれ得なかったのは、そのままリリアナ・カヴァーニの人間観の貧しさゆえであるように思われる。いくら題材が良くても、テーマが面白くても、キャラクターに魅力が与えられなければ、ドラマとしての説得力を欠いてくる。しかし、彼女の貧しい人間観では、魅力的なキャラクターを創造し得まい。
 表現行為には、詩でも小説でも映画でも、大きく分けて三種あると思う。T.感性そのものの表現。U.感性を通じての人間の表現。V.感性を通じての状況の表現。本作品などは、Uに当たる部分が大きいのだが、Uの場合、TやVと違ってキャラクターの魅力という要素が実に大きいのだ。
by ヤマ

'85. 5. 5. 渋谷パルコ・パートV



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