2本の指で掴んだまま、『ブーン』と言いつつ空を飛ばしてあげた。
そして、そのままお湯へは戻さず、浴槽のふちに置いてみた。
まっすぐ行けば落ちないからねと教えてあげたのに、
カメは2、3歩進んで、突然右へ針路変更し、あっという間に洗い場に落ちてしまった。
慌てて拾い上げようとすると、カメは逆さで必死にもがいていた。
手足をばたつかせながら、首の力だけでなんとか身体の上下を戻そうとしていた。
ニンゲンなら脳震盪くらいは起こすところだよと、カメに言って聞かせる。
何事もなかったように元に戻ったカメは、スタスタと排水溝に向かって歩き始める。
まるで、その先に広がる川や海を知っているみたいに、ある種の確信を持って。
「まだだめだよ」そう言ってカメをピンクの洗面器に移し変える。
何度も外へ出ようとして、やや傾斜した洗面器の壁を登るけど、どうしてもうまく行かない。
そう、それでいいの。
洗い場で、長い髪に残るシャンプーを、シャワーでじゃんじゃん流しているうち、
何故だか涙が溢れてきた。シャンプーの成分がきれいに流れ去った後も、洗い続けて私は泣いた。
カメは私、私は涼、私はカメで、涼は私・・ぐるぐる回って、涙が止まらなかった。
カメを洗面器に残したまま風呂場から出ると、涼が帰っていた。
「おかえり、今カメとお風呂入っていたんだよ」
「カメと?おまえって変だな、やっぱり」
よかった、機嫌がいいらしい。機嫌が悪ければ、カメとお風呂に入ったことさえ
怒りのきっかけになってしまうんだから。
冷めないうちに入ればと言い終わらないうちに、涼が私の唇をふさぐ。
かつて柔らかだったその唇は、今は冷たい粘膜みたいで気色悪い。
大丈夫、私は人形、私は人形と言い聞かせながら拳に力をいれて耐えた。
私は人形、そうつぶやきつづける心の隅で、小さく灯った豆電球みたいな言葉を私は発見する。
アシタ、ココヲ、デテイコウ
今までそうしなかったのが不思議に思えるほど、当たり前のことだった。
アシタ、ココヲ、デテイコウ。
人形になった私を、満足そうに抱く涼の胸の中で、明日カメも連れて行こうと思った。
そう考えると安らかな気持ちになって、私は黙ってまぶたを閉じた。
※ この作品は、ゴザンスマガジン創刊号(2001年10月発行)に掲載されたものです。
|