近松作品にみる喧嘩両成敗と敵討

田中光郎

(1)『花山院后諍』にみる喧嘩両成敗観

 以前、赤穂事件当時の喧嘩両成敗法について考察したことがある(「喧嘩両成敗法の元禄」および「浅野刃傷事件と喧嘩両成敗法」)。趣旨としては、実定法としての喧嘩両成敗規定は元禄期には後退する傾向にあったこと、赤穂事件の当事者は「喧嘩両成敗」を要求していた訳ではなかったこと、などであった。当面その見解を修正する必要には迫られていないのだが、元禄人の喧嘩両成敗に関する感覚を理解する手がかりに気付いたので、追加しておく。
 近松の処女作と目される『花山院后諍』は、平安時代の宮中を舞台としたものである。君寵を失った藤壺の女御は、ライバル弘徽殿の女御を暗殺することを平正度に依頼する。正度は早見七郎を刺客として送り込むが、警固に当たっていた渡辺綱に討たれてしまう。当然ながら正度の関与が疑われ、綱の主人・源頼光と関白の前で対決することになる。正度は綱と早見の私闘だと言い張り、綱の処刑を要求する。重要なのはこの時の正度の台詞「端喧嘩は両成敗とは定まらずや」である。さらに正度は屋敷に戻り「早見を討たせつゝ相手をも取らせずして、片手打ちなる御仕置也」と言って、頼光と一戦に望む準備をするのである。
 もとより史実ではない。平安時代に喧嘩両成敗をいうとは思えないが、近世人の法感覚を理解する参考にはなるだろう。悪人の台詞ではあるが、殿中での喧嘩が「両成敗」だという発言が全く説得力のないものであるならば、正度はこう言うまい。そして(自分の非は確かに知りながら)一方が死んで他方がそのままでは不公平だという感覚が、正度にあるのである。これがそのまま浅野事件に適用できる訳ではもちろんないが、近松の筆が同時代の法感覚を反映したものだとすれば、事件を理解する役には立つであろう。
 この争いは関白の裁定でうやむやになる。これも現代人には納得しがたい部分である。「深く事を糺されず都の騒動鎮めさせ給ふ、関白公の御心底有難かりける次第なり」というのは、いわば“大岡裁き”であるけれど、正義の実現という観点からは問題があろう。為政者に期待されているのは何か。法とは、裁判とは何なのか。近世人の感覚を理解するには、まだまだ勉強が必要なようだ。

(2)『世継曽我』にみる敵討観

 『花山院后諍』は近松の真作かどうか疑わしいところもある。確実に近松の作とされるもののうち最も古いのは『世継曽我』(天和3=1683)だという。三段目道行の「恋は曲者」が流行語になったという話題作だが、この中に元禄人の敵討観を理解する手がかりがある。
 本編は、兄弟の仇討成就の後から始まる。富士の裾野の巻狩はてて、新開荒四郎が奉行となって面々の獲物を記録した時に、御所五郎丸(元服して荒井藤太と改名)が曽我五郎生け捕りを記帳した。これを聞いていた朝比奈義秀、立派な武士を畜生同然に扱うとは何事と腹を立て「曽我が敵は五郎丸。重ねて曽我の所縁あらば、此の朝比奈が後見し、必ず狙い討たすべし。新開とても危うし」と脅しつける。のみならず曽我の従者、鬼王・団三郎兄弟にこの由を知らせ、一人は曽我へ帰り、一人は鎌倉に戻って荒井・新開を討てと唆すのである。
 さて、これを聞いた二人はどちらが鎌倉へ行くかで論争を始める。
「故郷の事は内証づく、眼前主人の敵を討たで侍が立つべきか」
「これ兄者人、左様の事を知り乍ら我を故郷へ帰れとは・・曽我殿の下人こそ兄は心健気にて主人の敵を討ちけれど、弟は臆病者にて逃げ帰りしと人に笑はせん巧よな」
「それは以ては同じ事・・弟は心剛なれども兄は腰が抜けたりと世上の人に笑はれんは、御辺も同じ恥ならめ」
互いに言いつのってついに喧嘩別れをしてしまうのである。
 その後兄弟は和解する。荒井藤太・新開荒四郎の両名は、曽我十郎の忘れ形見・祐若を人質に取ろうとして、虎・少将にたばかられ箱の中に閉じこめられる。これを手助けしたのが朝比奈で、逃げられぬように大石で蓋をしたところ、藤太の箱はつぶれて圧死。荒四郎は鎌倉へ連れて行かれるが、虎・少将の願いで命だけは助けられる。祐若は父と叔父の名をあわせ曽我十郎五郎祐時と名乗り、旧領が安堵されてめでたしめでたし・・・。

いくつか問題を考えてみよう。なぜ荒井藤太・新開荒四郎が敵なのか。五郎を生け捕った五郎丸(荒井藤太)が敵なら、十郎を討った仁田四郎は敵じゃないのか。このあたり、現代人の敵討観では理解しづらいところがある。朝比奈が問題にしているのは死後の兄弟を侮辱した言動であり、それに対する報復を兄弟にかわってする人間を必要とした。それは朝比奈本人ではできない。有資格者は兄弟の妻子や家臣で、朝比奈が選んだのは鬼王・団三郎だったのである。
 これを受けた兄弟の反応も興味深い。主君の敵を討つのは当然だという感覚がひとつ。そしてそれを後押ししているのが「世間」の目である。ただし、兄弟が争ったのは、世間体を気にして譲らなかったためでもあるまい。自分が敵討ちをしたい、それを主張するために「世間」を利用しているに過ぎない。
 もう一つ、仇討ちの結果が曽我家再興に結びついていることにも注意をしたい。敵討と相続との連続性の問題は、単純ではないけれど重要だろう。原作『曽我物語』にはこういうハッピーエンドは用意されていない。しかし近松はこれを必要と考えた。そういえば『碁盤太平記』も塩冶家再興で幕を閉じていた。
 赤穂事件の当事者、その事件を眺めた人々が敵討をどう考えているか。その時に、意識の表か裏かに『世継曽我』や類似の作品群が影響を与えていないだろうか。こういう視点は、別に目新しいものではないのだけれど、案外きちんと検証はされていないように思われる。