小身者の悲しさは
寺坂問題小考(その3)

田中光郎

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 寺坂問題小考と題して「吉田忠左衛門の狼狽」「身分の壁」を書き、寺坂は逃亡ではなく帰されたものであること、それは身分上の問題に由来すると考えられることを述べてきた。十分な証明とは言えないかも知れないが、もっとも蓋然性が高いと思っている。もう少し続けさせていただこう。

 下級者の多い水野家での聞き取りが元になっている『赤城士話』では、吉右衛門は「歴々と一所に組仕候儀、憚至極奉存候得共、只管親之専途を見届度存候」とやってきたが、討たれたか立ち退いたか、引き揚げの時にはいなかったと書かれている。「親之専途」というのが解しづらいが、「組親」の意味であろう。ちなみに本書では寺坂が原惣右衛門組とされており、当該記述の信憑性を疑わせる。これによれば、“身分の壁”を寺坂自身が強く意識していたになるが、むしろ彼よりわずかに上位の下級武士たちの意識を反映しているように思われる。同じ『赤城士話』に、神崎与五郎が「私は三村次郎左衛門など跡に成り候格式にては無之候」と抗議した話が載っている。同志として“平等”だというのは幻想である。きれいごとだけではない、武士の身分意識を考慮にいれておくことが必要なのだ。
 上級武士にはむしろ寺坂への同情が強かったかも知れない。上級者の多い細川・松平家に預けられた義士たちの中から、いわゆる密使説が出てくる。『堀内伝右衛門覚書』には明らかにそういう声があったことが記されている。『松平隠岐守殿江御預一件』にも毛利小平太とともに「不審也」としながら密使説に言及しており、そういう感触を得ていたことが窺われる。ただの逃亡とするのはかわいそうだという心理が働いているのだろう。

(2)

 同情論は周囲に広がった。杉本義隣『赤穂鍾秀記』は、寺坂が元禄16年4月に仙石伯耆守へ自訴した話を載せている。寺坂は討ち入り後使者となり、7日で赤穂に着きさらに広島の浅野大学方へまわって、すぐに戻るはずのところ、大学が帰さなかったので遅れた。「処罰してほしい」と願ったが、「もう事が済んだので今更処分を願うのは犬死にである、決して自害などするな」と諭され、素性を隠して泉岳寺の僧となった、とある。傍証を欠き、というよりは伊藤家文書と矛盾するので、到底採用することはできない。ただし、杉本の創作ではなく、そういう噂が流布していたのであろう。密使説が一人歩きしだした事が知られる。
 小川恒充『忠誠後鑑録』だとこうなる。吉田忠左衛門組の足軽・寺坂吉右衛門は浅野大学並びに上方同志の家族への注進のため、わざわざ「士の数に加へ、連判の列に入」れたものである。共に討ち入り成功を見届けたあと山科・京都・伏見あたりの家族を訪ね、12月21日播州亀山の原惣右衛門宿所に行き、さらに芸州に向かう。12月21日というのは驚異的であるが、15日から数えて7日目にあたり、『鍾秀記』の説を継承しているであろう。46士の刑死後、仙石伯耆守を訪ねるが「汝歴々の侍と同罪を望む事推参なり」と叱られた。もちろん仙石が寺坂に対して冷淡な訳ではなく、路金を渡して逃がしてくれるのではあるが、ここには再び高い“身分の壁”が出現している。おそらくこれは小川自身の意識が反映している。小川は一貫して「義士四十六人」で通す。討ち入ったかどうかではない。足軽の寺坂は「士」に数えられないのだ。

 『浅吉一乱記』では、吉田忠左衛門の家来・寺坂吉右衛門が吉良邸までつきそい(討ち入りには参加していない事になっている)亀山にいる吉田の妻の所に戻ったのを「下々には珍ら敷忠義なり」と称揚している。甚三郎あたりの事跡とごっちゃになっているかも知れないが、とにかく「下々」とすれば立派なものだという理屈である。
 少し時代は下るが、同様に吉良邸前まで来て参加しなかったとする「伊勢貞丈四十六士論評」は、大石が彼に使者を命じたのは何故かという問を立てている。大石が「足軽と党を結ぶ事を恥ての事歟」あるいは「足軽下臈なる故、大石試に古郷への使を申付て見たるか」。結論はともかく、武家故実の碩学は“身分の壁”を離れた思考はできなかった。
 儒者の多くが「四十六士論」で書くのは、切腹までをひとまとまりにするからではあろうが、こうした身分意識も考慮したものと思われる。珍しく47人説を採用している河口光遠でも「四十七“子”論」である。足軽の寺坂を「士」に数えるのには抵抗があったのではないか。

(3)

 同時代を生きた人にとって“身分の壁”は現実問題だった。どこまで事情を知っていたかわからないが、近松門左衛門が寺坂らしい人物を実質的な主人公に『碁盤太平記』を書いたことは記憶されてよい。
 高師直(吉良上野介)のスパイとして大星力弥(大石主税)に切られた奴・岡平、実は塩冶(浅野)家に仕えた足軽・寺岡平蔵の子・平右衛門。「奉公こそは足軽なれ。忠義の道に違ひはなし」と師直をねらっていたがチャンスに恵まれず、高家で大星に間者を入れるのを幸いに二重スパイとなり、敵を油断させる偽情報を送っていたという。聞いた大星由良之助(大石内蔵助)「身柄こそ足軽なれ、お主は冥土の塩冶殿。我等親子も傍輩なり。…たとへ此の場に出でずとも其の方親子をさし加へ、四十七人忠義の武士と末代に名を止むべし」と、彼を同志の列に加える。平右衛門は碁盤を使って高家の屋敷の様子を知らせて絶命。『碁盤太平記』という題名はこの場面に由来する。
 『仮名手本忠臣蔵』が『碁盤太平記』の改作である事はいうまでもない。岡平の趣向は勘平(死んで加盟が認められる)・本蔵(屋敷の様子を知らせて絶命)と分け合う事になるが、足軽でありながら参加が認められるのはやはり寺岡平右衛門である。七段目の平右衛門の活躍は“身分の壁”との格闘である。「僅か三人扶持取る拙者めでも、千五百石の御自分様でも、つなぎました命は一つ、御恩に高下はござりませぬ」と言った口で「歴々様方の中へ見る影もない私めがさし加えてとお願い申すは、憚りとも慮外とも、ほんの猿が人真似」と言わねばならぬ。妹・おかるを殺そうと決心したのも「小身者の悲しさは、人に勝れた心底を見せねば数には入れられぬ」からであった。結果、大星は平右衛門の加盟を認める。
 『仮名手本忠臣蔵』(1748)は寺坂本人の死んだ翌年の上演であるが、『碁盤太平記』(1706?)のころはもちろん生きている。その間の『忠臣金短冊』(1732)では寺沢七右衛門の役名で登場する。義理の娘を身売りさせて一統にくわわるという設定で、『碁盤太平記』から『仮名手本』への過渡的な作品である。寺坂自身がこういう風に扱われている事を知っていたか、またそれをどう思っていたかはわからない。確かな事は、演劇世界での彼の地位は“身分の壁”を破るヒーローだという事である。その壁を打ち破るために味わう「小身者の悲しさ」に、観客は同情する。庶民のレベルではどうしても「四十七士」でなければならない。

 こうなってくると、四十六士か四十七士かというのは、庶民の願望に答えるか、身分制の論理を堅持するか、という問題になってくる。平成の寺坂論争は、これを超えるものになっていただろうか。