吉田忠左衛門の狼狽
寺坂問題小考(その1)

田中光郎

(1)

 吉良邸に討ち入った浅野家旧臣のうち、寺坂吉右衛門だけは自首・切腹しなかった。その行動については古くから疑問が持たれていたが、昭和に入って吉田忠左衛門の娘婿・伊藤家に伝来した史料が紹介されるに及んで、ほぼ決着した。平成に入って、赤穂市の『忠臣蔵』本文編が逃亡説をとったことから論争が再燃し、市の“政治問題”にまで発展した。その後も議論は続いているらしいが、議論はかみあわないままである。
 しかし、寺坂問題について自分自身の考え方を整理しておくことは無駄ではないように思われる。不毛な論戦に参加するつもりはない。自分のスタイルで、史料の読み込みを続けていくだけである。驚くような新説のないことは、あらかじめお断りしておく。

(2)

 この問題について考える時、出発点となるのはやはり『堀内伝右衛門覚書』であろう。
赤穂浪人のうち十七人を預かった細川家の家臣・堀内伝右衛門は、役目を超えて彼らのために奔走した。吉田忠左衛門の娘婿・伊藤十郎大夫を訪問したのもその一環である。
 堀内が訪問した時、十郎大夫は「昨日届いた国元からの手紙で、倅(つまり忠左衛門の孫)二人が疱瘡だったが軽く済んだこと、忠左衛門の息子たちも無事であること、そして寺坂吉右衛門が無事に着いていることなどがわかっているので、伝えてほしい」と語った。藩邸に戻った伝右衛門が忠左衛門に話すと「さてさて浅からざる御志、とかく申し尽くし難く」と喜んだのだが、吉右衛門のことを言い出すと「此の者は不届者にて候。重ねて其の名をも仰せ下され間敷」と言ったという。
 いくつかの点を確認しておこう。吉田忠左衛門の家族(妻、次男伝内、次女)は、姫路郊外の播州亀山にいた。伊藤十郎大夫は姫路藩士で、家族(妻=忠左衛門長女、長男喜太郎、次男次郎助、娘三人)を姫路において現在江戸勤務。寺坂は亀山の吉田家に戻り、姫路の伊藤家にも顔を出した。そのことは手紙で十郎太夫に知らされた。伊藤十郎太夫が、寺坂の無事を忠左衛門が喜ぶだろうと思って、伝右衛門に話したことは間違いない。伝右衛門もまた、そのつもりで忠左衛門に伝えたはずである。
 ところが、意外の反応である。堀内伝右衛門は戸惑った。以前から、幕府への届出はじめ“公式見解”は逃亡だったはずなのに、吉右衛門が「一列一同に参り候て駆落」、「恙なく仇を討申たる儀知らせの使など申付けられ候」などと、色々なことが言われていた。そこへ、この吉田忠左衛門の態度だ。「真の駆落かとも存候」すなわち本当に脱走したのかも知れない、と思ったという。この問題に関して堀内は疑惑をもったままである。

 堀内の感触は、『覚書』のテキスト問題もあって、ニュアンスの違う受け取り方がされている。ここではこれ以上の深入りをしない。

 忠左衛門の反応は、いささか強烈すぎるようだ。大石内蔵助・原惣右衛門・小野寺十内は寺井玄渓宛の手紙(12月24日付)で寺坂の“脱走”に触れ、「軽き者の儀、是非に及ばず候」と書いている。脱走が事実だとしても、さほど厳しい態度ではない。もちろん、吉田と寺坂の特別な関係からきびしい言葉が出るというのは、考えられないことではない。しかし、不自然の感は否めない。

(3)

 さらに不自然なのは、十郎大夫にあてた最後の手紙である。

吉右衛門事、先日伝右衛門殿御口上ニて承申候。此段は唯今は是非難申候。一旦公儀へ指出候書付有之ニ付、仲間ニテて是非不被申候。御供ニて追付御のほり候已来は、御了簡ニていか様共可然様、頼申候。上より少も御障ハ、此もの猶更無之儀ニ候。伯耆守様ニて旧臘十五日ニ、右書付候内私組之者一人欠落いたし申候と申上候。其通と御挨拶ニ候。とかく御登已来御了簡有之、宜頼存候。其内も御了簡ニてうかつ事は不申候様ニ被成可被下候。

 奥歯に物の挟まった言いようであるが、ここに寺坂に対する“怒り”が見られないことは明白である。寺坂をよろしく、という遺言は他にも知られている。「此の者は不届者にて候。重ねて其の名をも仰せ下され間敷」と同じ人の発言としては無理がある。冷静になって気持ちが変わったという解釈も成立しうるが、いささか強引にすぎよう。
 ここで吉田が伊藤に伝えたいことは何か。歯切れの悪さが、むしろ手がかりとなる。幕府には脱走と届けてあるから、大目付・仙石伯耆守もそれで了承しているから、幕府の方から咎め立てのあるはずはないから、殿様(本多中務大輔)の御供で帰国してからよろしく(言い方をかえれば、十郎大夫が江戸にいるうちは目立つ言動をしてくれるな)、ただし帰国の後も迂闊な事は言わないように・・・。口止めないし口裏合わせを言外に依頼している、と読むのが妥当であろう。
 近代的な警察捜査を念頭におくと間違える。余程のことがなければ逃亡した犯罪者は捕まらない、というのが前提である。幕府に脱走と届けた。大目付もそれで了承した。それで寺坂問題は解決済みのはずだったのである。だから、(堀内の書いているとおり)一統の中からも密使説が囁かれるくらい暢気でいられた。幕府だってそんな小者一人わざわざ捜しはすまい。しかし、所在情報が出てくれば事情は異なる。
 伊藤から堀内に伝えられたのは、まさにその所在情報である。伊藤十郎大夫も堀内伝右衛門も善意の人である。こんなところから、せっかくの工作にほころびが出ては大変である。堀内から吉右衛門の消息を聞いた時の忠左衛門の強い反応は、怒りというよりも狼狽だろう。その狼狽が吉田にこの言葉を吐かせたものと理解する。「此の者は不届者にて候」は、本心ではないだろう。しかし「重ねて其の名をも仰せ下され間敷」には、忠左衛門の偽らざる真実があるのである。