身分の壁
寺坂問題小考(その2)

田中光郎

(1)

 前回の「吉田忠左衛門の狼狽」に引き続き、寺坂問題について考えてみよう。
 吉田忠左衛門の言動は、寺坂が逃亡した訳ではないと考えた方が自然に理解できる、というのが私の理解である。寺坂が逃亡したという前提ならば、彼の発言は自己弁護のための虚偽と見なされる訳であるが、そうでなければ、相応に信用して良いことになる。

 寺坂がどう言っていたか。最も早い証言は吉田忠左衛門妻・りんの元禄16年1月27日付け書状にある。署名は「しのざき太郎兵衛内」と、忠左衛門の変名によっている。宛先の「せいてひ」は未詳だが、恐らくは有馬家中の羽田・柘植一族の女性と思われる。テキストの問題もあるのだが、ここでは深入りせずに『赤穂義人纂書』所収のものによろう。

喜左衛門事はおしつめに此元へもどり申候。此者事、是非とも太郎兵衛供心ざし候へども、親子いろゝゝになだめ、むたいにもどし申候。心ざしかんじ悦申候。

 この喜左衛門が寺坂のことをさしているのは明白である。おそらくは誤写でなく、寺坂の変名だったのだろう。元禄15年の末、おしつまったころに戻ってきた。彼は是非とも忠左衛門の供をしたいと言っていたが、吉田父子は色々説得して無理やり戻した、とある。もちろん情報源は寺坂本人であろうが、彼女はこの言葉を信用した。伊藤十郎大夫治興がこの情報によって動いたろうことは疑いない。
 この書状に見える重要な傾向は、将来について楽観的な事である。「元よりかねてかくごにて、親子ともに存立候事」ではあるけれど「万一仕合よく吉左右承り候はゞ早々御しらせ可申候」といい、さらに続けて、様子は江戸でもどこでもいいらしい云々と希望的観測が綴られるのである。未練ではない、偽らざる心情であろう。これを責めるつもりはさらさらない。しかし、一統の覚悟とは懸隔がある。この楽観的気分が伊藤十郎大夫・堀内伝右衛門にも共通であるとすれば、忠左衛門の狼狽も宜なるかな。事態の深刻さを、妻も婿もこの好人物もわかっていないではないか。頼むから吉右衛門の事は口外しないでくれ!

(2)

 次に登場するのは吉右衛門自身の書いたもの、元禄16年5月、羽田半左衛門・柘植六郎左衛門に贈った『寺坂信行筆記』の奥書である。しかしここでは「子細候て引別申候」とあるばかりで、ほとんど何もわからない。
 寺坂が列を離れた時の事情を最も詳しく伝えるのは『伊藤十郎大夫治行聞書覚』(以下『治行』)である。治行は吉田忠左衛門の娘婿・伊藤十郎大夫治興の長男、すなわち忠左衛門の外孫にあたる。周知の通り、寺坂は一挙後伊藤家に身を寄せてよく尽くし、後に旗本山内家に仕えることになる。治行は幼少から寺坂に話を聞いており、それを書き付けておいたのだがいったん焼失、思い出しながら書いて寛延3年(1750)に子息・三次郎に与えたものである。江戸に行ったおりには寺坂に確認したと言うが、本人は延享4年(1747)に没しているから最終チェックはしていない。部分的には間違いと指摘できる箇所もあるが、全体を疑う必要もあるまい。『治行』によれば、こうである。

寺坂吉右衛門儀、右之節惣人数と壱緒ニ泉岳寺へ罷越、門内へ入可申と仕候処、大石内蔵介・原惣右衛門・片岡源五右衛門・間瀬久太夫・小野寺十内・堀部安兵衛など其外之衆中共ニ彼門前ニて吉右衛門へ被申候者「寺内へ参候而ハ、寺之作法有之候へハ、其様子ニてもはや門外不成様ニ候ハゝ、兼々吉田忠左衛門申含置候旨趣ニ背キ、却而無本意ニ候。自是播州へ急罷上リ可申」旨、何も抑留被申候。吉田沢右衛門・貝賀弥左衛門「猶以左様ニ申付候得共いかゞ哉」と存申候処、大石内蔵介就中被申候者「とかくニ只今ニ成、申条無用也。兼而忠左衛門申含置候処、今更変改ニ及候事、其方却而未練二て本意を違候間、此上者もはや兎角之申条無之、急罷上リ可然候。勿論其方未練ニて臆致たる儀ニ無之段、為証拠此壱通、兼而より忠左衛門父子其外申談、用意認置候。是ヲ持参可申候」旨ニて、各連判之一通、内蔵介被渡候ニ付、其上者難黙止候而、十二月十五日之朝四ツ時分惣連中へ立別候。

 寺坂自身の記憶違い、治行の記憶違い・書き間違いは考慮に入れなければならないが、大筋はこの通りであったと思われる。
 泉岳寺で別れたとするのを否定する立場もある。『寺坂信行筆記』にある引き揚げの道筋が間違っているというのがその根拠だが、寺坂が江戸に住んだのは一年未満、地名などについて勘違いしている可能性もあり、致命的な誤りとは思われない。それよりも重大な問題がこの記述には見られる。
 第一に、討ち入り後離脱するのは既定の方針だった。吉田忠左衛門からあらかじめ申し含められていた。
 第二に、行き先は播州とされている。
 第三に、吉田沢右衛門・貝賀弥左衛門が、軽くではあるけれど、異論を唱えている。これに対し、大石が強靱な意志を示して別れさせている。吉田忠左衛門は仙石伯耆守に届け出に行っているので当然この場にいないが、その子と弟が異議を唱えているのである。

 これらの問題は後で思い返す事になるが、ここではりんの書状との食い違いをおさえておきたい。吉田父子が無理に返したというのは必ずしも事実でなく、むしろ吉田家サイドは連れて行きたかったがそれを大石が阻んだのだと読める(最後まで連れて行こうというつもりではなく、泉岳寺に入れるかどうかが問題だったかも知れない)。このへんのニュアンスが、寺坂問題を理解する鍵になると思うのである。

(3)

 勘違いした記述に出くわす事があるのだが、『治行』は密使説を主張していない。この史料を紹介した伊藤武雄『寺坂雪冤録』が、密使説を採用しているのだ。氏が密使説をとる根拠となるのは、『堀内伝右衛門覚書』のほか伊東竹里『寺坂吉右衛門碑』と『寺坂私記』にある孫・信成の記述だが、いかにも証拠能力は弱い。

 『治行』による限り、密使説は成立困難である。目的地は芸州ではなく、播州だった。使者の役割をあらかじめ申しつかっていたならば、別れ際に躊躇するなどあり得ないし、それを沢右衛門らが援護する事も考えられない。
 アリバイもほぼ成立する。『治行』によれば、江戸を発ったのが15日夜で、播州亀山に着いたのが29日。大の月なので大晦日の前日ということになる。もっとも柘植六郎左衛門の書状(2月24日付け)に12月27日とあり、そちらの方がよさそうではある。いずれにしても、上述のりん書状「おしつめ」の文言に符合する。この間、25日には京都で寺井玄渓に会った事が堀部文五郎書状(赤穂義士史料館甚三郎文書A-7)によって知られる。吉右衛門に超人的な活動をさせて広島まで行ったとする方もあるが、リアリティを欠く。贔屓の引き倒しというものであろう。足軽の浪人が個人の資格で、ひょっとするとお尋ね者になっているかもしれない状況で、10日で京都に着いたのは立派なものだ。
 そして亀山に着いてからは「蟄居にて罷在候」とある。3年目の宝永元年に本多家が越後村上へ転封するのに伴い、亀山から姫路・村上と移動するまで、ひっそりと暮らしていたというのである。密使説の成立する余地はほとんどない。あくまでも密使説に固執するなら秘密にしているのだと主張する事になるのだろうが、この段階で隠す必要があるとは思われない。

 密使説をとるのは逃亡説に反対するためであることが多い。逃亡でないとすれば、なぜいなくなったのかという問がなされるからである。これに対しては、片山伯仙氏の「名分の上からのがしたものと思う」(「義士寺坂吉右衛門」)という見解がもっとも当を得ていよう。“身分の壁”である。
 類似のケースはいくつかある。寺井玄渓は医師であるが故に、参加を認められなかった。近松勘六の忠僕・甚三郎の活動は同志の認めるところで、近松の名字をやって参加させればという意見もあったが、そうはしていない。寺坂についても参加させるつもりはなかったらしい。あれこれ考え合わせれば、これは身分問題としてとらえるのが最も妥当だろう。討ち入りには参加させても一緒に自首はさせない。そこにはもちろん殺すに忍びないという温情もあるが、士分でない足軽への差別意識も含まれる。

 これは主として大石の考えによるだろう。忠左衛門は直接大石に反論してはいないが、沢右衛門・貝賀弥左衛門の行動を見れば、できれば一緒にという思いがあった可能性が高い。こういう大石の姿勢に対する反感は、甚三郎に名字を与えて参加させればよかったのにという発言に垣間見える。一統の中から密使説が出てくるのも、寺坂に対する同情が一部にあったためではないだろうか。大石が“身分の壁”を超えていないとすることは、義士礼賛者の不興を買うかも知れない。しかし、“身分に伴う責任”たる武士道の体現者が“身分の壁”を超えるとする方が非論理的だろう。大石は家老という身分にあればこそ、主家・浅野家の名誉を回復するためにすべてを抛ってこの一挙に出たのである。