石原新左衛門の一言

田中光郎

 赤穂開城に際し、大石内蔵助が必死の嘆願を行ったことはよく知られている。その過程および性格については別稿で述べた(「赤穂城の政変」「いわゆる浅野家再興運動の性格について」)。ここでは、少し視点をかえて、受城側の人物について考えてみよう。

 赤穂城の受城使は脇坂淡路守と木下肥後守である。ただし、これは城が軍事施設であることから、軍隊により引き継がれる必要があるからで、実質的には受城目付こそが使者というべきであろう。
 受城目付は、役職としての「目付」ではなく、「使番」から臨時に任命される。『職掌録』の「御使番」の項には「城請取の上使、両番の内一人差添勤む。其外地方の事は御代官差添勤む。先早朝其城へ入見分あり。町宿へ下り請取渡の人数相揃、上使出て大手前に床几に腰掛、請取方の大名も大手前に陣す。大手の門開くと段々に入替る」云々とあり、「上使」と表現されている。さらに言うなら、入れ替えがすむと案内によって上使が入城して台所前の床几に座すのだが、これは使番だけで、他のメンバーは敷皮。ついでながら受取の大名も敷皮であって、使番=受城目付の格式を思わなければならない。
 赤穂収城の場合、使番として受城目付になるのは荒木十左衛門政羽。当初予定された日下部三十郎(小姓組番)にかわって、書院番から付けられたのが榊原采女政殊。この二人が軍事的意味を持つ収城の「上使」であり、就中荒木が正使という地位だったのである。これに対し、石原新左衛門正氏・岡田庄大夫俊陳の二人の代官は地方=民政の担当者として添えられたものである。「代官」は勘定奉行の配下で、農政という特殊な仕事を担当するために多く世襲となっている。使番が1000石相当の地位であるのに対し、代官は150俵程度と相当の格差がある。この時点で比べれば、荒木1500石、榊原1300石、石原200俵、岡田150俵である。この役割と地位の違いをふまえて、大石必死の嘆願の模様を振り返ってみる。

 元禄14年4月18日、開城を明日に控えて、目付役荒木十左衛門・榊原采女、代官石原新左衛門・岡田庄大夫による検分が行われた。「金之間」で茶を出したとき、大石が願い出る。
 「内匠儀、不調法の仕方につき御仕置仰せつけられました段は、とやかく申し上げるべきようもございませんが、古采女正(長重)儀は開幕以前より台徳院(秀忠)様に御奉公申し上げ、代々御厚恩をこうむりましたのに、この節断絶いたしますこと、まことに残念でございます。弟・大学が閉門を仰せ付け置かれております。この者の安否の程も知らずに離散仕る段は、家中の者共も平穏ではおられません。憚りながらお察し下さい。大学が御奉公相勤まりますほどの首尾になりますようお願い申し上げます」
 しかし、四人共に返答なく座を立った。次に大書院でも同様である。検分も済んで帰りの節、玄関で茶を出して三度目の嘆願を行った。
 「再三恐れ入りますが、先にも申し上げました通り、内匠不調法につき御仕置仰せつけられました段は家中の者も納得しております。ただ大学安否をも見届けず離散いたしますことを、私にあれこれ言って参ります。その心底、余儀ないことと存じます。」
 ここに至り石原が荒木に向かい「内蔵助の申分は余儀ない事。江戸に帰ってから御沙汰申し上げても苦しからぬ事ではござるまいか」と助け船を出すのである。
 荒木も「なるほど内蔵助申し分一通りもっともである」と言うので、大石はさらに畳みかけて嘆願する。「御懇意のお言葉に付きまして申し上げます。なにとぞお取りなしをもちまして、大学が閉門御免を蒙り面目もあって人前をも相勤め快く御奉公をも申し上げますようになさっていただければ、家中の者共はみな安堵いたしますので、憚りをも顧みず申し上げました。」
 荒木は「まかり帰り御老中方へ申し上げた方がよろしいかな、采女殿いかが」と榊原の意見を求め、「なるほどもっとも」との返事を得たので、荒木も帰府次第言上すると請け合ったのである。(以上『江赤見聞記』)

 そもそも大石等が最初の嘆願書を提出しようとした相手は、荒木・榊原であった。代官の役目ではなかったのである。すれ違いで嘆願書の提出ができなかったのを承けて、大石は開城前に必死の嘆願をする。不名誉な開城を受け容れるために、せめてもの形を整えようとしたものと理解できる。“武士は相身互い”として、同情しても良さそうなものではある。
 しかし、荒木・榊原は無視し続ける。官僚的な態度というべきだろう。黙視できなかったのは、役目違いの石原だった。石原の一言は武士としてもっとものこと、荒木も無下には斥けられない。しかしそれでも姿勢は消極的で、榊原に対する問いかけも後ろ向きである。榊原の答えも積極的とは言えないが、ともかくも江戸へ言上することになったのである。石原が、荒木を動かしたと言ってよい。

 大石が大学処分決定まで行動に移らなかったのは、この嘆願がいちおうの成果を挙げたからである。もし石原の一言がなければ事態は変わっていたかも知れない。たとえばすぐに討ち入ろうとして、失敗していたら義士の名は残らなかったのではないか。萱野三平が自殺するより早く決行していたら、お軽・勘平の物語は生まれなかったに違いない。もちろん、歴史に「れば」「たら」はない。実際に起こらなかったことをあれこれ考えても、はっきりしたことは何も出てこない。
 はっきりしているのは、ここで武士の情を知る者が歴々の武官ではなく、小身の経済官僚だったことである。赤穂城内で重臣連中より軽輩の勘定方が熱意を持っていたのと一般、「武士らしさ」というもののありようは、一筋縄ではいかぬものだという感を深くする。
 荒木十左衛門は、のち2000石に加増、従五位下志摩守に叙任される。その後小普請入りなどもあって、結構起伏のある人生である。榊原采女も従五位下周防守になっている。これに対して岡田・石原は、特に昇進することもなく、代官として一生を終える。石原新左衛門は、ほとんど無名のままである。場合によっては「情ある武士」の名を荒木に独り占めされてしまっていたりする。しかし、そのことに泉下で不満を漏らしてはおるまい。こんな人のことを知るのも、歴史の楽しみである。