山科会議と円山会議

田中光郎

 浅野長矩の刃傷事件から吉良邸討ち入りにいたるまでの期間、大石内蔵助を中心とする同志の面々は、何度も会合を持った。ここで取り上げる二つの会議は、その中でも有名なものである。元禄15年春、決行を急ぐ急進派をおさえて大学赦免を待つ方針を決定したとされるのがいわゆる山科会議であり、同年秋、大学処分決定を承けて決行を決定したとされるのがいわゆる円山会議である。
 このふたつの会議の内容は、『赤城義臣伝』によって伝えられている。しかし、別稿(「原新党の可能性」「東行違変の舞台裏」)で見たように、会議内容には疑問がある。そうなると、『義臣伝』の記述自体が疑わしくなってくる。

 いわゆる円山会議については、『預置候金銀請払帳』に「京丸山にて打寄会談の入用十九人分」の記載があることが傍証とされる。しかし、この出納簿はおおむね時間順に記載されているのに、該当の記述の前後を見ると、いわゆる円山会議のあった時期よりはるかにおそい。恐らくは大石の東下時にツケを払ったものと推定される。そうだとすれば、円山で会議のあったことは事実としても、いわゆる円山会議の時のものであった証拠にはならない。『松平隠岐守殿江御預一件』に「相談之場所日限を相極、京東山にて寺を借り、遊山体に仕」ったとあるのも、大学赦免以前の所にかかっている。

もっともちょうど一両というキリの良さを考えると、単なる支払いではなかった可能性も考えられる。営業というより同志に対する理解(あるいは大石に対する好意)から会場が提供され、それに対する謝礼という意味をもっていたのかも知れない。

 『寺坂信行筆記』は、いわゆる山科会議に相当する会合について「京丸山寺中客座敷才覚にて、二月十五日何も御寄合有之」と記述している。これを信用すれば、いわゆる山科会議が円山で開催されたことになる。一方『江赤見聞記』には、いわゆる円山会議に相当するだろう会合について、大石が京都にいたので「近辺に居合候一味之もの共打寄」ったといい、いわゆる円山会議が大石の居宅で開かれた可能性を示唆している。
 ただし、大石の京都移住の時期については疑問がある。江戸の吉田忠左衛門から届いた大学処分決定の知らせは貝賀弥左衛門が山科の大石に伝えたというから(『松平隠岐守殿江御預一件』)、転居はそれ以後であろう。『赤城義臣伝』は、閏8月1日に山科の家を僧・証讃に与えて京都四条の梅林庵に移ったとする。『義臣伝』の記述を無条件には信じられないが、大学赦免の報を得てから転居したとすれば、このくらいが自然ではある。元禄15年7月末には山科居住の可能性が高い。あわせて考えれば、いわゆる円山会議は、山科で開催された疑いが濃厚である。

もっとも「京丸山」云々のないテキスト(『寺坂信行自記』)もある。

 上の疑いが事実であったとすれば、『赤城義臣伝』はふたつを取り違えたことになる。他書に見られないことは赤穂・江戸・京都で取材をして書いたものである、と片島深淵は自信を示している(『義臣伝』凡例)。何の根拠もないでたらめを書いたとは思わない。しかし、勘違いをした可能性はある。
 元禄15年の春から秋にかけて、上方では進藤・小山ら穏便派と原・大高ら強硬派が対立していた。穏便派の感覚では、春の会議では強硬派に押し切られた感じがあろう。これに対して、秋の会議では穏便派の延引論が優勢だった(以上前掲拙稿)。円山で行われた会議(春)では強硬派、山科で行われた会議(秋)では穏便派が主導権を握った。“円山で強硬派、山科で穏便派”の情報が、片島の取材網にかかったとする。堀部安兵衛の書状などを材料にしている片島ならば、“穏便派優勢(春の山科会議)から強硬派主導(秋の円山会議)へ”という道筋で整理をしたとしても不思議はない。順序が転倒することは、ありうべき錯覚のように思われるのである。

 本稿では、いわゆる山科会議が円山で、いわゆる円山会議が山科で開かれたのではないか、という問題を考えてみた。前提となっている事柄も仮説に留まっている部分が多く、現時点ではひとつの可能性という以上のものではない。なお、様々な角度から検討する必要があるだろう。会議がどこで行われたかはそれほど重大でない、という御意見があれば、ごもっともという外ないのではあるが。