上方における堀部安兵衛の活動
「原新党の可能性」拾遺

田中光郎

 元禄15年夏、なかなか腰を上げない大石内蔵助に業を煮やした堀部安兵衛は、原惣右衛門らとともに分派行動を起こし、上方の同志を説いて回って、いよいよ分裂寸前という時に浅野大学左遷の報が届き、事なきを得た。ということに、通説ではなっているが、実際はどうだろう。拙稿「原新党の可能性」では主として原惣右衛門の動きから、「新党計画」が進んでいるように見えるのは堀部の誤解によるものであって、原はむしろ分裂回避のために努力しているということを述べた。
 堀部の行動を知る上で最良の史料『堀部武庸筆記』は、堀部の上方行きの直前で終了している。その後堀部がどうしたかはっきりわからないのだが、多くの書は次に掲げる『赤城義臣伝』に拠っているようだ。

就中堀部安兵衛は忍へ兼て、六月十六日米沢町の借宅を仮初に立出、芝に住ける同志吉田・近松に之を告げて、同十八日新橋を発し、廿九日に京師に着し、大高源五が隠栖を尋ね、忠雄を倡ひて大坂に下り、原惣右衛門が宅に至りて内蔵介に引離るゝの義を勧め、中村・潮田・武林等の勇士を催して、不日に関東に下向せんと内談を定む。… 斯て堀部武庸は、京・大坂・伏見の間に徘徊し、同士に出府の約を定め、七月廿六日関東に帰んとす。然所に其前日廿五日、奥田董盛が飛檄到つて、大学殿芸州に左遷の由を告ぐる。堀部武庸之を聞いて手を打つて愁傷し、「今こそ大石氏の思残せる事も非じ。此上は一応内蔵介に告げ示して諸同士の衆議を決すべし」と慮ひ返して、再び又飛檄を山科及び京中伏見大坂赤穂の間に伝へて、同月廿八日京都丸山重阿弥が端の寮に於て衆議を定むべしと触伝ふ。(巻之七、奇籍大観本pp224-6)

 『義臣伝』は名著であるが、全面的に信用する訳にはいかないことも、定説になっている。傍証を求めて得られなければ、疑いを残しておいた方がよい。この部分について言うならば、完全に否定するほどではないとしても、反証を挙げることが可能である。その証拠とは、他ならぬ堀部安兵衛の書状である。

私儀、当六月十八日江戸表出足、致上京、大石内蔵助初其外之面々へも対談一決之相談弥相調候節ニ至り、七月十八日大学閉門被遊御免、芸州広島江引越被申筈之由、従江戸表之注進、同廿二日ニ京都へ申来候ニ付、此上者何之心隙も無之時節ニ罷成候間、兼而之一決、弥相催シ候相談堅ク申合…(11月20日付溝口祐弥ほかあて、『史料』下p188)

 これによれば、6月18日に江戸を発ったのは『義臣伝』と同じであるが、その後の行動はかなり違う。大石とも面会し「一決之相談」が調ったという。本当に調っていたかどうかは疑問の余地があり、安兵衛得意の一人合点(拙稿「堀部安兵衛の人物像」参照)だった可能性が否定できないが、ともかく袂を分かつような状況ではなかったことが読みとれる。
 この書状の信憑性を考えてみよう。大学左遷の報が伝わったのを7月22日にしているのは、『松平隠岐守江御預一件』(『纂書』)に見える貝賀弥左衛門の証言と一致しており、25日に奥田が伝えたとする『義臣伝』よりは頼りになりそうである。宛先は実方の親類であり、いわば部外者ではあるが、敵討の意図を隠そうともしておらず、あえて嘘を書く必要もなさそうに思われる。つまり、ここでの堀部の記述は、そのまま信用してよいと考えられるのである。
 分裂寸前で回避した、というのはドラマティックではある。しかし、これを歴史上の事実とみなすことは躊躇せざるを得ない、というのが現時点での私の結論である。