堀部安兵衛の人物像

田中光郎

 堀部安兵衛武庸は、講談・浪曲・映画などで、喧嘩安・呑んべ安・赤鞘安として親しまれている。もっともこれは俗説であることも、既によく知られている。今さら事新しく述べ立てることもないようではあるが、事件の真相を知るための重要史料『堀部武庸筆記』を正しく解釈するためには、彼の人間像を把握しておくこともあながち無駄ではないように思われる。

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 高田馬場で名を挙げた中山安兵衛を、堀部弥兵衛が口説いて婿に取ったいわゆる「安兵衛婿入」の一席であるが、よく採用されているのは『二老略伝』(『纂書』第二)の説、すなわち中山の名字を守りたいという安兵衛に対し、弥兵衛は中山姓のままでよいと君侯の許可を得、意気に感じた安兵衛は潔く堀部家の人となった、という筋書である。面白い話であるが、多分事実でない。『波賀朝栄覚書』(『史料』上)に貝賀氏(弥左衛門)の談話として記録されている、「子供を作って次男に中山を継がせればよい」と説得したという方が、事実に近いであろう。弥兵衛はそれほど非常識な人物ではない。
 ともかくも、全く血縁関係のない義父子なのに、物腰・手跡まで不思議によく似ていたということが『堀内伝右衛門覚書』(『纂書』第一)に見える。この弥兵衛が下戸であったという話も同書にあって、平尾孤城氏はこれを理由に「余り左党ではないと思われる」と述べている。嗜好まで似ていたかどうかは解らないが、安兵衛が大酒家であった証拠はなおさらない。

 酒量の程は不可知として、残された多くの手紙から、義理堅く筆まめな人物であったことは確認できる。そしてまた、世話好き(見方によっては御節介)タイプだったことも推定される。例えば元禄4年に上田九郎左衛門(従弟)にあてた手紙(『史料』下7号文書)では、本人が牢人の身の上だというのに、相談に乗るから江戸に出てくるように勧めている。また、元禄12年(浅野家勤仕後)の長井弥五左衛門(甥)への手紙(同24号文書)でも吉之丞(弥五左衛門弟か)に出府を勧め、自分のところに泊めてやると言い送っている。姉の嫁ぎ先である長井家は越後の豪農(一説酒造家)で、弥五左衛門はこのころ家を継いだばかりであったらしい。そこで安兵衛叔父さん、当主の心得についてひとしきりお説教を垂れるのだが、これが実に長くて翻刻2頁分以上を費やしている。「大学八条目」などを持ち出して教養のあるところを見せているのだが、やられる方の身になってみれば理屈っぽくて口うるさいに相違ない。親切ではあるのだが、多少とも独善的で押しつけがましいところがあるようだ。

(2)

ただでさえ高田馬場の有名人であるのに加えて、理屈っぽい堅物ときては、朋輩衆も敬遠気味だったのではなかろうか。元禄11年に尾張光友正室(徳川家光娘)千代姫が他界したとき、安兵衛は弔問の使者として名古屋に出張した。その様子を実父の友人・吉川茂兵衛に得意げに報告している(同22号文書)。もちろん名誉なことには違いなく、自慢してもよいのだが、「思いがけないことで他名を相続したので、勤め方などにも取り分け気をつかっていた」云々という文言に、屈折した心理を感ずるのは私だけではあるまい。弥兵衛が300石の足軽大将(元禄6年の分限帳、『大石家義士文書』所収)だったのに、安兵衛は200石の馬廻、弥兵衛の隠居料20石(元禄13年の侍帳、同書)を加えても降格の印象は否めない。もちろん実績を挙げて昇格していけばよいのだが、自負心の強い安兵衛には焦燥感があったのではなかろうか。(なお、元禄6年とされる分限帳の「組頭者頭惣領」の項に堀部安兵衛の名がある。高田馬場一件は元禄7年のはずなので疑問は残る)
 こういう事情は、事件の進行に影響を与えている。浅野長矩の切腹後、安兵衛は高田郡兵衛・奥田兵左衛門(孫大夫)とともに、吉良邸に切り込む仲間を募ったが誰も応じなかった(『武庸筆記』)。のちに一挙に加わる江戸詰めの藩士もまだいたにも関わらず、安兵衛の呼びかけでは集まらなかったのである。その高田も後に脱盟し、残ったのは律儀者の奥田だけになってしまう。家柄の問題が大きいのであろうが、人間性の問題もなくはないように思われる。在江戸の中小姓クラスで志の堅い者が結集したとき、盟主と仰がれたのは安兵衛でなく不破数右衛門だった(同書)。安兵衛と同宿のうちから脱盟者が続出したのは、ある程度彼の性格に起因するところがあるかも知れない。安兵衛のリーダー性には疑問符がつく。大石との論争の中で「御手前様御一人之御思慮にて事極り、外之者は御下知に随ひ申迄にて候」(15年1月26日大石宛書状、同筆記)という安兵衛の心中に、やはりある種のコンプレックスが感じられるのである。

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 安兵衛の独善的な理屈っぽさをぬきにしては、大石・堀部論争の意味も正しく理解できないのではないか。別稿(「いわゆる浅野家再興運動の性格について」)でも述べたように、大石の主張は一貫して大学の閉門赦免時の待遇で浅野家の名誉回復を図ろうというものであった。『武庸筆記』の記述を見ると、開城時の大石との対話で、堀部らはそのことを理解してよさそうに思われる(以下、『武庸筆記』による場合はいちいち注記しない)。しかし、実際には理解できていない。
 上述の通り、安兵衛らが最初に考えたのは吉良邸討ち入りであった。江戸で同志が見つからない状態の3月24日赤穂の小山源五左衛門に送った書状(『史料』下50号文書)では、開城を前提に吉良を討とうと提案している。そうこうするうちに多川・月岡が江戸に到着、どうやら国元なら不満組がいるらしいと、安兵衛は奥田・高田と共に4月5日江戸を発足した。赤穂に到着してみると、既に開城に決した後であったので、納得できない3人が方々論じているうちに「以後之含」もあるという大石の言葉を得た。この時点で安兵衛は討ち入り方針が決定したと考えており、弥兵衛への報告書(同55号)でも「大形存念の通」になったと認識している。だから、帰府するなり5月19日付けで早くも大石に下向を促しはじめる。大石らのほか、早水藤左衛門にも同様の書状を送っており(同111号。なお、編者はこれを15年の書状としているが、14年と見るべきであろう)、宿のことはまかせておけ、という文句(上述の上田・長井あて書状参照)が出てくるところも安兵衛らしい。
 「以後之含」が敵討を指しているのは正しいのだが、「大学殿一面目も有之、人前も罷成候様不被仰付候はゞ」という条件を、記録した安兵衛がまったく無視しているのは不審である。私としては、これを安兵衛の独善的理屈っぽさのなせる業と理解するほかはない。自分の論理にしっくりとはまらないものは、意識から欠落してしまうのであろう。
 大石・堀部論争の前半は、この誤解に基づいている。だから、安兵衛の主張は「御家再興」より「敵討」だということになり、大石はそういう二者択一の問題ではないということを説明し続ける。この対立は大石の第一次出府まで続く。安兵衛が「城離散之砌之存念」として吉良の処罰がなければ趣意が立たない、と書くのはこの第一次出府の後である。まだ少しニュアンスが違うのだが、大石の目指すのが単なる主家再興でなく名誉回復だということがようやく理解できたことになる。

(4)

 大石が山科に戻った後で事態は展開した。吉良の隠居が認められ、これ以上の処罰のないことが確定したのである。吉良の処分がなければ浅野家の名誉回復もないのだから、すぐに敵討行動をおこすべきだという安兵衛の主張は、論理的に明快である。しかし、大石の立場から言えば、元来この嘆願は不名誉な開城を甘受するためのエクスキューズとして行われたものであったから、実現の見通しがなくなったからといって行動を起こすわけにはいかない。見通しでいうなら、最初から絶望的ではあったのだ。ただし、ここまで来れば大学赦免は時間の問題である。大石は時間稼ぎに終始する。安兵衛はそんな大石を見限って別派行動を模索し始める。ここで問題になるのが原惣右衛門の動きなのだが、その検討にはもう少し手間がかかるので、今は深入りしない。ただ、原の分派計画とされるものには「御免之上、此方申合候者共納得可仕筋見へ不申時」(15年4月2日付)という条件がついているのを、安兵衛が無視していることだけは指摘しておきたい。最初に赤穂であったのと同種の間違いを、安兵衛は再び犯しているのである。
 安兵衛は論理的思考ができない訳ではなく、むしろ理屈っぽい性格である。ただ、自分の論理にあてはまらないものは欠落させてしまう傾向があるのだ。このタイプは相手に説得されることはなく、相手を説得することもなく、論争相手としてはこれほどやっかいなものはない。
開城時赤穂での議論がおおむね自分たちの思うようになったと、安兵衛が父に報告していることは既に述べたが、これは一人合点であった。同様の状況はこれ以外にもあって、たとえば14年6月24日長矩百ヶ日法事の後に江戸家老・安井彦右衛門を仲間に引き入れようとした時も、いったんは「大方承引仕たる」と思いこんでいる。大石第一次出府前の原惣右衛門、進藤源四郎らとの会談でも「大方尤之様に承引」「三人(堀部・奥田・高田)の所存尤に候と承引」、大石出府後の最初の会見(11月4日)でも「大方尤之方に大筋相聞」とあるが、これらがどれくらい安兵衛の言うとおりなのか、疑問が残る。この第一次出府の時に長矩一周忌を目途にすることで合意するのだが、後で大石が原・大高に語ったところでは「あれ是と申論候ては事治りがたく、第一場所之儀候故一たん同心之様に先申静」めるためだったという(15年2月3日大高書状)。大石でさえ“その場しのぎ”をせざるを得ないような調子だったとすれば、余人はなおのことであろう。あまり、議論を戦わせたい相手ではない。

 以上、堀部安兵衛の人物像を尽くした訳ではないが、その一端を紹介した。或いは世の安兵衛ファンの不興を買うかも知れないが、私としては決して彼を貶めた積もりはないことを付言しておく。円満な人格者が良い武士である訳ではない。『葉隠』流にいうなら、武士は「くせ者」でなければならないのであって、安兵衛はやはり一癖も二癖もある「くせ者」であると言えよう。