大石放蕩の虚実

田中光郎

(1)はじめに

 名作・仮名手本忠臣蔵の中でも、七段目・祇園一力茶屋の場は上演頻度の高い一幕である。三人侍が由良之助をなじる場面は、肥後藩・大川源兵衛や薩摩浪人・村上喜剣などにかわることはあっても、忠臣蔵ものに欠かせない場面である。これを上杉方の間者の目をごまかすための策略と見るか、大石が心底遊び好きだったと見るか、解釈の分かれるところであるが、大石が放蕩したということ自体はほぼ共通認識となっている。これに対し、宮澤誠一氏は近著『赤穂浪士』の中で「直接証拠立てる史料はなにもない」と述べている(p118)。結論的には同感であるが、同書の性格から論証のために十分な紙数をさけなかったと思われる部分もあるので、私もこの問題について考えてみたい。

(2)堀部安兵衛の無関心

 私が大石放蕩を疑問とする理由のひとつは、堀部安兵衛の無関心である。周知の通り、早期決行を主張する堀部は、なかなか腰を上げない大石に対し、時には無礼とも思えるほどの口調で食い下がり、また、原惣右衛門・大高源五らへも、大石に対する不満をかなりあからさまに示している。こうした書状を集めた『堀部武庸筆記』の中に、大石の放蕩に言及した箇所はない。大石に同志の疑念を招くほどの放蕩がなかったことを意味するのではないだろうか。
 もっともこれについては、大石の放蕩が始まったのが元禄15年4月、妻を実家に帰したあたりからだとする説で説明がつかないこともない。『武庸筆記』は15年6月までで終わっているから、まだ堀部のもとまで情報が届いていなかったのだと考えることは可能である。しかし、この説を採用するともっと厄介なことになる。

(3)『介石記』及びその後継

大石の放蕩についての比較的早い証言に『介石記』の記述がある。『赤穂鍾秀記』などは『介石記』の影響を受けていることが明白だから、この証言は多くの放蕩伝説のもとになっていると言える。さて、『介石記』は策略説をとっているのだが、それにからんで上杉方の密偵を欺いたことと、真意を知らない岳父が妻を離別させたこととが記されている。密偵の話はまた後で述べるとして、妻を離別させたという説話が放蕩時期を後ろにずらすことによって成立しなくなる。もちろんそのことがただちに放蕩自体の否定を意味するものではないとしても、『介石記』のこの件に関する信頼性を著しく損なうことは防げないであろう。
 もっとも、妻・理玖の離別については、出産のために4月中旬に実家に帰し、その後討ち入り方針が確定した10月上旬に離別したこと、及び岳父・石束源五兵衛が理解者であったことは、今日ほぼ定説となっている。遊蕩開始の時期にかかわらず、『介石記』及びその後継者たちの言説は証拠能力が低いことになる。

(4)三田村鳶魚の考証

 大石の遊興について、最も詳しく調べたのは三田村鳶魚「撞木町の大石内蔵助」(『鳶魚劇談』=『三田村鳶魚全集』19)であろう。確実な考証は余人の追随を許さぬものがあり、現在も無断で(あるいは無意識に)これに依拠していると思われる著作が実に多い。この問題について考えるには、まずこの一編を読んでおく必要がある。
 この中で触れられている大石遊興の場所は、伏見撞木町、京都島原、江戸赤坂の三カ所である。ただし、島原の根拠となっている『赤穂義士伝一夕話』は江戸後期の成立であって、証拠能力は著しく低い。赤坂の根拠『魚躍伝』は、美文で他の実録類と一線を画すものであるが、その分信憑性に欠ける。ことにこれに関する部分では、元禄15年の10月下旬赤坂に通ったことになるが、11月上旬まで川崎平間村に潜伏していたという通説(『寺坂信行筆記』などに拠る)が正しければ、大石にアリバイが成立する。撞木町以外の部分は眉唾ものである。
 ところで鳶魚の考証の主眼は、当時の撞木町が遊里としては二流であり、大石の遊興はあまり金を使わなかったはずで、「豪遊は否定すべきである」という点にある。遊里の歴史について付け加えるべきものは持っていない。大石が豪遊というほどの遊興をした訳でないという結論を頂いておこう。これを補強する事実として、大石がことさらに敵討の意図を隠そうとしていなかったことを、我々は知っている(拙稿「大石内蔵助の最後通牒」参照)。隠蔽のために豪遊してみせる必要性は、恐らくあまりなかったであろう。

(5)社交場としての遊里

 撞木町での遊興の直接証拠とされるのが、『義士文章』の収録した笹屋内儀宛の数通の書状である(『纂書』所収)。これを疑う余地のないものと主張するつもりはないのだが、真物という仮定のもとで立論しても、大石の放蕩の証拠とはならないと考えられる。
 ここに収録されているのは、いわゆる艶書の類ではなく、「御もてなし」に対する礼状や予約・キャンセルの連絡である。大石は一人で遊びに行った訳ではなく、しかもそのメンバーは小野寺十内・大高源五・潮田又之丞などの“義心鉄石”組である。笹屋通いの時期がいつからかは別にして、大石の遊興は急進派を不安に陥れるような性質のものではなかったというべきだろう。
 山本博文氏は『長崎聞役日記』(ちくま新書、p19)の中で遊里(長崎丸山)での寄合を「現在からイメージするとすれば、クラブでの会合に相当すると考えた方がよい」と指摘している。程度の差こそあれ、恐らく近世の遊里一般に一種の社交場という性格を見ることができるだろう。もちろん、まったく問題のない行為とされていた訳ではないことは、遊里での寄合を廃止しようという動きがあったことが示している。しかし、それでも一般的な武士の感覚では許容範囲だったのである。そのことを意識した上で、この主題に関わる最も良質の史料『江赤見聞記』の検討に進むことにしよう。

(6)上方の路線対立

内蔵助事、全活気成生付故、於京都遊山見物等之事に付、不宜行跡も有之、金銀等もおしまず遣捨申候。此事を古風成源四郎・源五右衛門などつよくきのどくがり異見等も切々申候。(『江赤見聞記』巻之四)

 ここに明白な遊里通いのことは見えないが、「不宜行跡」という微妙な言い回しの中に含意されているかも知れない。それ以上に重要なのは「活気」な大石の遊興と、それを問題視する「古風」な進藤源四郎・小山源五左衛門(本文は源五右衛門に作る。大石家の系図類により源五左衛門を採用した)らの対立が記録されていることである。しかし、恐らく本当の対立点は遊興そのものではない。いわゆる「御家再興運動」実は浅野家名誉回復運動の見通しが暗くなった時点で、敵討を実行しようとする路線をとる大石と、いささか消極的になっている小山・進藤の対立が始まっていた(拙稿「原新党の可能性」参照)。『江赤』の著者と目される落合勝信は恐らく小山・進藤らと親交があって、このあたり彼らの言い分を叙述に反映させているものと思われる

宮澤誠一氏も「脱盟者の言い分にもそれなりの理解を示している」ことを指摘している。(前掲書)

(7)大石放蕩の虚実

 『江赤』で大石の遊興ぶりが強調されているのは、脱盟者の言い訳によるだろう。しかしそれを採用した史料でも“身持放埒”というほどの強調はされていない。
 それでは何故大石が放蕩したということが一般的になったのだろうか。ひとつには、遊里の宣伝活動が考えられる。明証は挙げられないものの、ある程度の遊興があったことは事実であると推定しておく。顧客が有名人であればこれを利用しない手はない。例えば笹屋が本当に大石らから書状を貰っていたとすれば、こんな手紙をいただいておりますと事あるごとに見せびらかしたに相違ない。事件後かなり早い段階でそういう噂が尾鰭をつけて広められるのは、想像に難くない。
 そういう噂があれば、実録本を書こうとする人はこれを取り込むであろう。しかも大石にスパイが付けられているという噂は、事件当時からあった。吉良方の目をくらますための臥薪嘗胆、岳父までだましとおしての隠忍自重、そうした「物語」を創作するのはそれほどの難事ではあるまい。
 もとよりこの「物語」は面白い。七段目がなければ『仮名手本忠臣蔵』はこれほどの名作とは言われまい。しかし、赤穂事件の歴史的事実を追究しようとするものは、あまり軽々しく飛びつかず、虚実を自分の目で確かめていく必要がある。