帝都の中心から西。界桜グループが牛耳るオフィス街からは車で一時間と少し。現在、日本屈指の高級住宅地
とされている桜ノ宮地区の一角に、その居城はあった。敷地の広さは実に野球ドーム2つ分を収めても余るほど
で、旧帝国ホテルを彷彿とさせる屋敷を中心に、東西南北には日本の四季を思わせる庭園と離れを持ち、近隣
住民からは源氏御殿、或いは桜御殿などと呼ばれていた。
外観とは裏腹に、内部の一角は純和風の造りとなっている屋敷は、広さの割に人は少ない。深夜という時間もあ
るのだろうが、今夜は特にシンと静まり却っている。
「雪か……どうりで冷えると思うた……。」
重くしわがれた声が誰にともなく放たれ、薄闇に張りつめた空気を揺らす。僅かに開かれた障子の向こう。美しい
春の庭園にも今の季節には雪が降る。
「今年は、雪が長引きそうだな……。」
二月だというに、気の利かぬ事よ……。
ぽつりぽつり。独り言のように零れる言の葉は、けれど一人の男に向けられたものだ。
緋桜と寒桜。対成す屏風を背に胡坐をかいて、脇息に肩ひじを預けた老人は、界桜グループの現総帥・桜隆寺
宗太郎。現在79歳。今年の夏には80歳になるというのに、未だ政財界に絶大なる支配力を持ち、日本経済を影
で操る怪物だ。
そして、その傍らに正座のまま控えているのは椿義雅(ツバキ ヨシマサ)。55歳。界桜グループの影ともいえる雅
嶺会(ガリョウカイ)の会長であり、椿匡雅の父親でもある。
「で、法案は通らんのか?」
やっと視線を向ければ、傍に控えていた義雅が静かに視線を上げた。
「はい。」
「仕方のない……。なんの為の与党か。そろそろ己らが立場を弁えさせる時期か。」
鋭利な刃物を思わせる視線が、静寂を纏って控えている義雅に向けられる。が、万人が恐れ慄く視線も、傍らの
男は軽く受け流し、
「では、そのように。」
と一言。お膳立てはすべて終わっているのだ。それでも、この男は事後承諾にしたくないのだろう。その様子に、
しわがれた声がくつくつと笑う。
「喰えぬヤツめ。」
「潮時がございます。」
「ならばわしの許可などいるまい。」
「勝手は出来ません。特に政権交代となると、私の一存では。」
「既に上げ善据え膳ではないか。」
「時間とタイミングがございます。」
「義雅……。いい加減わしを隠居させてくれんのか?」
「御冗談を。」
広い和室に、くつくつと笑いが零れる。
だが、互いに向けられる意味深な視線は決して絡み合う事はない。
二人の距離は、いつでも絶妙に保たれていなくてはならない。
それが裏社会の暗黙のルールであり、親子ほどに近しい二人の関係の境界線でもあった。
「それより。」
と、宗太郎は手にした書類を畳の上に置くと、すーっと、義雅の前に滑らせた。
『戸崎鷹久に関する調査報告書』と書かれた書類の一枚目に、一枚の写真がクリップ留めされている。
「義雅。まあ、政権はどうでもよい。問題はこれだ。」
「はい。」
「某銀行の頭取が泣きついて来おったぞ。」
「匡雅にも困ったものです。」
「そうか? わしは楽しくて仕方ないがの。」
本当に楽しいのだろう。くつくつと肩を揺らせて笑うのは、宗太郎が寛いでいるからだ。元より、義雅自体が彼の
暇潰しの相手みたいなものである。自然、言葉も軽くなる。
「総帥。」
「くくく。堅物にも春か……。」
「春嵐にならねばよいのですが。」
「春嵐か。それもよかろう。翔一郎と違って手が掛からぬのはよいが、匡雅は堅物過ぎてつまらん。偶にはハメを
外してわしを慌てさせて欲しいものよ。」
表の顔と裏の顔。それを自然に、完璧に使い分ける匡雅の顔を思い出し、宗太郎は目を細め、笑う。こういう時は
、正に祖父の感情で動いているのだろう。
「こんな魔性を手元に置いて、ハメを外す程度で済めばよいのですが。」
「それもよい。魔性に喰われて終わるような匡雅でもあるまい。しかし、これだけの魔性がわしの情報網から逃れ
ておったとは。実に惜しい事をした。」
「喰われますよ。」
「わしの歳を考えろ。もう思い残す事などないわ。抱いてみたいが……匡雅は許さんだろうなぁ。」
冗談めかしてはいるものの、相手が匡雅でなければどんな手を使っても奪い取ったに違いない。写真の中で微
笑む青年には、宗太郎が触手を動かすだけの価値があるのだ。同性に興味のない義雅にもそれはよく理解出
来る。だから、言わずにはいられない。念を押すように。
「戦争は、ごめんです。」
「くくく。わしもごめんだ。もう下がっていいぞ。わしはこれから犬コロと交尾だ。」
「お珍しい。女には飽きましたか?」
「いや。この報告書を読んだら、久しぶりに締りの良い尻が恋しくなった。若くて元気なモノを握って啼かせるのも
よかろう。」
「お元気な事で。だから隠居も出来ないのですよ。」
「そう来たか。」
二人の会話は、何処までも穏やかだ。
内容はともかくとして。
「では、失礼します。」
「うむ。義雅。政権交代は急ぐのだろう?」
「出来れば、ですが。」
「匡雅を雲隠れさせておけ。まずは、いつもアレに泣き付く連中をお前の懐に抱き込め。選別はわしがする。」
「解りました。雲隠れは何日ほどさせましょうか。」
「そうさな……一か月というところか。匡雅にもよい休暇になるだろう。アレは働き過ぎだ。」
「煽る気ですか。」
「くくく。戦争は避けたいのだろう? 暫く邪魔が入らぬようにしてやろうという祖父心だ。政権交代ともなれば、表も
裏も大騒ぎでアレにまで手は回らんだろうからな。」
「…承知しました。くれぐれも、興味は持っても手は出されますな。」
「解っておる。」
「では。」
「うむ。」
義雅が書類を持ったまま静かに一礼して退室すると、宗太郎の視線が隣の部屋へと向けられる。寝室には美し
い青年が待っている。尤も。あの写真を見た後では自慢の稚児も平凡な青年にしか見えないのだから困ったもの
だ。
「朱樹(トキ)。」
襖を開けて名を呼ぶと、大きな布団の横で正座したままの美しい青年が両手をついて宗太郎を迎えた。
迷路のような回廊を気配もさせずに歩きながら、ふと、義雅は窓の外に目を留めた。赤い寒椿。匡雅が生まれた
時に宗太郎が植えたものだ。隣の白い椿は翔一郎が生まれた時に。これは義雅の父である時雅(トキマサ)が植
えた。
不思議な関係の二人だった。
だが、その絆の強さは、時に義雅を混乱させ、そして驚愕させもした。
今となっては、二人の関係の真実は誰にも解らない。時雅の死が、すべてを闇に葬ってしまったからだ。
戦中戦後。あの混乱の時代を二人はどうやって生き抜いたのか。義雅が生まれた時には界桜グループと雅嶺会
の基礎は出来上がっていたというが……。
「義雅様。お時間です。」
廊下の角から顔を出した遠慮がちな秘書の声に、義雅は優雅に頷いて窓辺を離れた。美しい大理石の玄関フ
ロアを通り抜けると、直立不動だった黒服の男たちが深く一礼して義雅を迎える。ある意味、その光景は壮観で
ある。何も知らない人間が見れば恐ろしいだけかもしれないが、圧巻である事に変わりはない。
義雅が乗用車としているロールスロイスに乗り込むと、隣に秘書の今泉が座った。何事にも無駄を嫌う義雅のい
つものスタイルだ。音もなく滑るように車が走り出すと、すっと今泉がシガレットケースを開いて義雅に差し出した。
長い指先が中央の一本を抜き出す。そのままの流れで今泉がライターに火を点け差し出すと、義雅は薄い唇に
挟んだ煙草をゆっくりと吸った。
「……株価はどうなっている。」
「持ち直しました。」
「そうか。」
今泉からノートPCを受け取ると、義雅は実に優雅な仕草でタッチパネルを操作する。
長い指だ。今泉はいつも見とれてしまう。同じ男として憧れずにはいられない。今泉は義雅の秘書として、その
隣に立てる日を夢見て11年も努力したのだ。そして、夢を叶え六年経った今もその努力は続いている。
「今泉。」
「はい。」
「携帯で匡雅を呼び出せ。」
義雅は視線をモニターに固定したまま、抑揚のない声で今泉に命じた。

