凍えた闇を従えて、オフ・ホワイトの特注リムジンが超高層ビル群を走り抜ける。
リムジンの前後を護るのは漆黒のドーベルマンの如き二台のベンツ。付かず離れず一定の距離を保つその運転
技術は、シークレット・サービス独特の訓練を受けたプロの証しだ。
極道と一言で言っても、それはピンからキリまで。頂点を極めてしまえば、その生活は逆に闇の世界からは遠ざ
かって見えるものらしい。
椿匡雅は、黒いムートンと白いミンクの毛皮でシックに飾られた車内の、その後部座席の真ん中に陣取って優
雅にPC画面を眺めていた。長い脚をうっとおしげに高く組み、その膝に置いたPCを撫でるように扱う繊細な指先
は、ふと愛しげにモニターへと滑る。
『そろそろおねむの時間だよ、秋。早く久とお風呂入っておいで。』
『やぁだ。あき、シロさん待ってるぅ。おねむしないぃ。』
『遅くなるかもしれないって紫朗さんが言ってたろう? 明日になったら会えるから。ね?』
『だって、お客さま来るんだもの。あき、おでむかえするんだもの。』
『秋ぃ…困ったなぁ。久も笑ってないで何とか言ってくれ。』
『そんな事言ったって…。ここに客が来るなんて初めてだし、俺たちと一緒に住んでくれる人なんだろ? 俺だっ
て興味あるし。無理だよ、兄貴。今夜は大目に見たら?』
『もう…。』
ひんやりとした画面の向こう側で、愛しい子供たちが穏やかな時間を過ごしている。
自分の与えた世界の片隅で。
別に監視している訳ではないが、いつでも邸宅内の様子が見られるようカメラを設置し、何処からでも個人所有し
ているPCに映し出せるようにしてあるのだ。
自分でも理解の範疇を超えているが、この三兄弟に関してだけは他人任せに出来ない。どれほど多忙を極めて
いても、だ。
視線をフッと上げると、向かい合わせになった座席の真ん中に小さな椅子が置かれている。世界広しといえど、
椿の所有する車にチャイルド・シートを置かせる事が出来るのは、あの極上天使だけだろう。
ふぅ、とらしくもなく溜息を吐き、椿はPCを脇に置くと大きなクッションに身体を預け、無駄に長すぎる脚を高く組
み替えた。以前は、自分の乗る車にクッションなど置いた事はない。向かい合わせの座席など、生まれてこの方
必要だと思った事はなかったし、まして車内に空気清浄機まで設置させるなど、ほんの数カ月前の自分からは
考えられない。
すべては、半年前。
戸崎鷹久という名の魔性との出逢いから始まった。
己の持って生まれた運命に翻弄され、抗う術すら見つけられずに立ち尽くしていた美貌の少年。
あの玲瓏な漆黒の瞳に、白くたおやかな細い指先に、甘く香る白磁の肌に、魅せられた…と言ってしまえば、欲
望むき出しの他の男たちと変わりはしないだろうか。
けれど、鷹久と出逢ったあの瞬間。生まれて初めて感じた執着と独占欲に、椿は目眩がするほどの衝撃を受け
たのだ。
見る者の心臓を鷲掴みにする美貌。
そして男を欲情させてしまう色香。
翔一郎はフェロモンと言っていたが、ある意味それ以上だ。
そう。それはまるで媚薬が姿形を変え、人として存在してしまったかのような…。
「戸崎…鷹久、か…。」
椿はクッションに肘を乗せ、ゆるく頬杖をつく。
かつても今も、平然と他人(ひと)を殺す手は意外に繊細で、長い指先には傷一つない。
椿は極道の家に生まれ、当然のように極道となった。だが、それ以外の道が無かった訳ではない。彼は小・中・
高と有名私立に通い、一流大学を主席で卒業したあと二年間海外留学を経験している。
椿の両親は、一人息子に決して極道の道を強制したりはしなかった。
しかし、椿の傍らには界桜グループの後継者たる翔一郎がおり、彼の年の離れた妹もまた、椿を実の兄のように
慕った。元より、界桜グループの総帥であり創始者である桜隆寺宗太郎(オウリュウジ ソウタロウ)を「おじい様」と
呼ぶ事を許された身だ。椿は生まれながらに世界有数の財閥を後ろ盾として持ち、実家はこれまた日本屈指の
極道の総元だったのだ。
これだけすべてが揃った逸材を手放すほど、極道の世界は馬鹿でも愚かでもない。
結果的に、誰の思惑がどう働こうとも、椿匡雅の歩む道は決まっていたのだろう。
椿がその手を初めて血で濡らしたのは14歳の時。初めて人を殺したのは16歳。
初めて女を抱いたのは13歳の時で、初めて男を抱いたのは22歳の時だった。
そして、初めて人が死ぬのを見たのは6歳の時。
自分の世話役だった男が、自分を庇って死んだのだ。兄のように大好きだった男だ。
自由には、それと同等か、それ以上の代償が求められる事を、椿は幼い頃に知った。
あの男の死がなかったら、もしかしたら椿は別な道を歩んでいたのかもしれない。
ふと、物思いに耽っていた椿は胸ポケットから漆塗りの薄いシガレット・ケースを取り出すと、一瞬試案してから細
いそれを取り出した。指に挟んだ黒い紙巻きタバコは自分の為に作らせた特注品だ。
----シュッ…。
シガレット・ケースと対になったライターで火を着けると、細い先端の焔から淡く香る紫の煙。車内を満たす甘さに
知らず椿は目を細める。
タバコの葉を巻く黒い紙には、薔薇の香料が染み込ませてあった。
薔薇は、鷹久の肌の香りだ。
別段コロンや香水を使っている訳ではないのに、鷹久の躰からは幽かな薔薇の香りがするのだ。
だから作らせた。
ハマッてるな…。
自分でも尋常ではない事など解っている。
34年の人生の中で、一人の人間にこれほど固執した事はない。
執着…なんて生易しいモノじゃない。
自分の中にこんな感情が存在している事など、鷹久に出逢うまでは知らなかった。
出逢った瞬間。
あの眼差しに、指先に、香りに、囚われた。
まるで薔薇の牢獄に自ら進んで閉じ込められた囚人のようだ。
時折、自分のすべてが、あの魔性に染められてゆく錯覚に陥る。
別に、それはそれでいいのだが。
「立花。」
手元のスイッチで助手席にいる秘書を呼ぶと、正面の上部中央にあるモニターが一人の男を映し出す。
『はい。』
野太い声の掠れは、ヘビースモーカーの勲章だろうか。
後部座席と完全に隔離されてはいても、さすがに椿のいる車内で煙草に手は出さないが、立花の指先からヤニ
の匂いが消えた事はない。
あの愛くるしい極上天使が『おててあらって。』と言う度に苦笑する立花は、けれど禁煙など実行に移す気はな
いだろう。
無骨で大きな男の手が、なぜか極上天使のお気に入りだ。
死んだ父親を思い出すのかもしれない。
二人の兄の繊細な手では、やはり、父の代わりにはならないのだろう。
いつも、寂しくなると警護主任として側にいる角井の手に触れたがるという。
角井は、身体のゴツい男だ。
立花も。
二人共外見が強面なので普通の人間は敬遠するが、三兄弟は違っている。
自分たちを護ってくれる大きなモノ、強いモノに、三兄弟は無意識に惹かれるのだ。
散々な目に遭って来たから。
人が羨む美しさも、愛くるしさも、彼らにとっては厄介なモノでしかないという事だ。
「行き先変更だ。マンションに向かえ。」
『解りました。』
数多くのマンションを所有する椿に、けれど立花は何処のマンションか、とは聞かない。行き先の再確認をしない
など、以前の彼ならば考えられない。
だが、立花には解っている。
恐らくは、椿の傍にいる男達の殆どが、今の彼の言葉に同じ判断をするだろう。
帝都郊外の高級ホテルに向かっていたリムジンは、何事も無かったかのように滑らかに都心へと進行方向を変え
る。
三兄弟の住まう高級マンションへと。



