『あと10分ほどで到着します。』
立花の声に、ふと、椿は顔を上げた。少し眠っていたらしい。ここ数カ月、某国から始まった経済の落ち込
み対策 に追われ、表でも裏でも秒刻みのスケジュールが組まれていたのだ。無理もない。今回は翔一郎
も相当の無理を しただろう。久しぶりに顔を見たが、他人には解らない程度には頬がコケていた。

界桜グループと雅嶺会。
表裏一体でしか意味を成さない巨大な組織は、その力関係故に如何なる場合でも迅速かつ緻密に動か
ねばならない。しかも同時に、だ。どちらか一方が動いただけでは、その巨大さが災いして容易く屋台骨が
グラついてしまうのだ。そうなってしまってからでは手に負えない。
だから、ここ数か月の椿の忙しさは尋常ではなかった。
疲れた。それが椿の現実だ。尤も、決して他人にその現実を悟られる事はなかったが、とにかく、睡眠時
間を必死で確保していた。そう。椿にとっては、こんな移動途中の車ですら格好の仮眠室だったのだ。
それでも、と。ふと思う。
その尋常ではない殺人的スケジュールの中、あの美しい魔性と過ごす時間だけは確保していたな、と。
そんな自分の現金さを皮肉に思いながらも、今もまた彼の許へと向かっているのだ。まったく信じられな
い。自分の行動が、だ。
「立花。明日の午前中の予定はどうなっている。」
『09:30より界桜の定例会議。10:25より民豊党の副党首と会談。10:50より自永党の党首と会談。11:20より
社栄党の議員団と某国代表団の表敬訪問。11:40よりダイゴグループ吸収合併についての最終調整報告
。重要な部分はこの程度かと。土佐が西都から戻りましたので、定例会議につきましては欠席しても問題
はないかと思いますが。』
「自永党の党首? 法案否決の件か。よく俺の前に顔が出せたものだ。」
『今回の件では向こうも必死でしょう。会長が直に呼び付けたようですから。』
「親父め、行動が早いな。久しぶりに野党に落とすつもりか。」
『しかし、景気がどん底の今、選挙はマズイでしょう。』
「ふん。どちらにしても経済界を締め上げておくか。」
『与野党逆転の下準備ですか。』
「そういう事だ。日銀を押さえておく必要があるな。余計な発言は慎んでもらおう。」
『解りました。』
次から次へと目まぐるしく動く政治を睨みながら、財界を抑える事も忘れない。界桜グループと雅嶺会同
様、政界と財界も表裏一体なのだ。椿は次の選挙を睨み、更なる圧力を加えるべく携帯を取り出した。視
界の片隅には超高層マンションが聳え立つ。
まだ、三兄弟が起きている時間だ。久しぶりに三人の声が聴けるだろう。
と、その時。
「……。」
椿の手の中で携帯が鳴った。黒電話の着信音は椿の父・義雅の専用だ。椿の眉間に珍しく皺が寄る。父
からの電話にはロクな事がない。義雅の後ろには匡雅を溺愛する宗太郎がいるからだ。それでも手の中
で鳴り続ける着信音を無視する事は出来ず、渋々椿は二つ折りの携帯を開いた。
「匡雅です。」

黒い携帯が椿の耳に押し当てられて間もなく、彼を乗せたリムジンは再び進行方向を変え闇に消えた。



義雅を乗せたロールスロイスが滑るように雅嶺会総本部前に横付けされた。帝都中央、とはいえ、オフィ
ス街からは北に外れた一角にそれはあった。極道の巣窟。だが、外見だけで言えば黒く磨き上げられた
立派な17階建の企業ビルだ。一階は総ガラス張り--勿論防弾ガラスだが--のカフェと見紛うロビーとなっ
ており、主の帰還に慌ただしく走り回る男たちの姿が丸見えになっていた。外では、ズラリと並んだ出迎え
が黒い壁と化している。
「お疲れ様です。」
高級ホテルのドアマンの如く一人の男が車のドアを開けると、今泉に続き義雅が降りた。いつもの優雅な
足取りで一斉に腰を折る部下の前を歩きながら、厚さ20センチはあろうかという重々しいドアを開けたまま
頭を下げている男に視線を留める。
「維田(いだ)。匡雅が来たら書斎に通せ。」
「……はい。」
脚は止めずに命じると、維田は短く応えて頭を上げた。今年40歳になるという維田はシャープな美貌を持
った男だが、悲しいかな、左頬から首筋にかけて大きな火傷の痕がある。酒乱の父親に熱した天ぷら油を
かけられたのだというが、広範囲の為隠しようがない。この傷さえなければ極道になどなっていなかったの
ではないだろうか。実際、維田は義雅が複数所有する堅気の会社のひとつを任されている。IT企業の社
長なのだ。
「荷物を。」
維田に突然声をかけられ、今泉はハッと我に返った。どうも維田の前に立つと今泉は萎縮してしまう。恐る
恐る見上げると静かな視線が降りて来る。差し出された手が今泉の脇に挟んだPCに伸びた。もう片方の
手は鞄に伸びる。華奢な今泉が大型の鞄とノートPCを持つと、どうにも危なっかしく見えるらしい。
「貸せ。」
もの静かに言われると、今泉の心臓が不自然にドキンと跳ねる。ノンフレームのメガネの向こうから覗く鋭
利な視線。
「だ、大丈夫です。」
「そうか。」
仕事上はどうか解らないが、維田はあまり強引な性格ではないようだ。今泉の言葉にあっさりと両手を引
いた。その様子に。
な、なんか……シェパードみたい……。
失礼だとは思ったが、実家で飼っている犬を思い出した今泉である。




それにしても……。
「……これは、クるな。」
16階の事務所奥にある書斎で一息吐いた義雅は、机に置いた書類から一枚の写真を手に取ると、暫く弄
んでから眺め観た。

絶世の美貌だ。
そうとしか言いようがない。
義雅の手の中、長い前髪で顔の半分を隠すようにしながら微笑む青年の写真。
まだ18歳になったばかりだというが、同性にはまったく興味のない義雅ですら写真を観ているだけでジワリ
と体温が上がる。無防備に晒される幼げな笑みは、それだけで凶器だ。その道の人間ならば、宗太郎で
なくとも手に入れたいと切望するだろう。

蕩けるような朱の唇。
透けるような雪白の肌。
何より義雅の胸を騒がせるのは、その稚くも妖しい眼差しだろうか。
しっとりと濡れた黒髪の揺れる様までもが魅惑的で、思わず義雅は写真から視線を外した。

一体誰に向かって微笑んでいるのか。
隠し撮りされた写真の向こう側、その真実は解らない。