ここは、まるで海の底だ…。
ならば、この少年は海神か。
16歳だというが、とてもそうは見えない。落ち着き払った態度といい、物腰といい、口調といい。
海斗は椿の少年時代を想像してみた。きっと久秋と重なり合う部分が多いだろう。
勿論、海斗は椿の少年時代など知らないが。
言ってしまえば、久秋は極道向きの男なのだ。
多分、その事を周囲の男たちも、本人も知っている。
ただ、誰も言わないのだろう。
言葉にすれば、運命は動く。
本人の意思に拘る事無く。
それは、避けねばならない。
極道に、明日の約束はないからだ。
その世界に、他人の言葉で、思惑で、久秋を喰わせる訳にはいかない。
何より、椿がそんな事を許すまい。
たった今、久秋に会ったばかりの海斗ですら、惜しいとは思うが。
海斗の視線の先。
黒い世界に佇む少年は、闇の帝王と本当によく似ていた。
「ところで、鷹久さんは。」
遠野の声に、海斗は我に返った。
この部屋は、異質だ。気付けば物思いに囚われる。
「ああ、風呂の準備。秋の着替えを取りに。いつ紫朗さんが来るかって、秋、待ってるって動かなくて。ほんとはもう寝てる
時間だし。」
「それは、申し訳ない事をしてしまいましたね。で、その秋典さんは。」
「ん? 雀のかくれんぼ。」
「…なるほど。」
久秋の言葉に、遠野が笑う。
二人の視線の先には漆黒のスポーツ・カーだ。
海斗が目を凝らすと、何やら中で蠢いていた。
『どんなに上手に隠れても、かわいいオツムが見えてるよ。』
ああ、車の中に隠れてこちらを見ていたのか。
光の反射でよく見えないが、確かに人影がある。
「ちょっと待ってて。」
久秋はそう言うと、ゆったりとした足取りで車に近づいた。
指先でコンコンとウィンドーを叩く。
と、カチャ…と音がしてドアが開き、真っ白い塊が二つ、転がるように飛び出して来た。
「へ?」
海斗が妙な声を出すと、遠野が、ああ、忘れていた。と苦笑した。
「椿さんのペットだ。アフガン・ハウンドの『白尾(ハクビ)』とメイン・クーンの『太郎』。白尾はその名の通りアルビノだ。」
「アルビノ…。」
確かに、これほど白いアフガン・ハウンドなど海斗は見た事がない。
海斗を警戒しているのか、白尾は顔だけを海斗に向けて、体で壁を作るように久秋の背に立っている。
「鷹久さんが、いつも『弟たちを守ってね』と言うものだから、白尾は知らない人間が来ると二人から離れないんだ。ヘタに
近づくなよ。襲いかかって来るから。太郎はマイ・ペースだな。」
苦笑する遠野の視線の先、緊張する白尾とは逆に太郎はすっかりソファで寛いでいる。それでも、耳がピクピクしている処
を見ると警戒はしているのだろう。
久秋は、自分の肩幅程度に開いたドアの前に膝をついて、何やら話をしているようだ。
人見知りが激しいのだろうか。秋典はなかなか出て来ない。
「コーヒーでよろしいですか?」
背後から聴こえた伊達の声に、物思いに沈みかけた海斗はビクリと肩を震わせた。
異質な黒い世界にいる事で、精神が落ち着かない。気を抜くと足元から闇に引き摺り込まれてゆく錯覚に陥る。
ここで、本当に三兄弟は暮らしているのか。
末っ子への影響を考えたらマズくないのか。
色々と考えを巡らして、けれど結局答えは出ない。
ただ、フと遠野を見上げると、酷く穏やかな眼差しで久秋の背を見詰めている。
もしかして死んだ弟を思い出しているのだろうか。
海斗は会った事などないが、遠野が海斗を拾った理由が弟の死である事は、遠野の周辺では有名な話だ。
「遠野さん?」
「あ…あぁ。海斗もコーヒーでいいのか。」
「あ、はい。」
自殺した弟を、今でも遠野は愛している。
もう10年も過ぎてしまったが、一生心の傷として遠野の中に残るのだろう。
遠野の背を飾る炎の昇り龍は、天を睨んで嘆き悲しんでいる。
届かぬ手を必死に伸ばし、二度と戻らぬ命を嘆いて慟哭しているのだ。
弟の死後彫られたせいで、どんなに勇ましい龍を彫ろうとしても、どうしても嘆き悲しむ姿になってしまうのだと、一流の彫り
師が頭を抱えたと言われている。
何度か海斗も見ているが、痛々しいほどに美しい炎の龍は、遠野の心を映し出しているようで長くは見ていられない。
雲を掻き分け失われた命に近づこうと天に昇らんとする龍のあまりの痛々しさに、後に天才彫り師がその龍の手に蓮の花を
彫り足したほどだ。
そうしてやっと、龍は落ち着いた。手に握りしめた美しい蓮の花に、愛おしい命の息吹きを感じ取ったのだろう。
それでも、決して癒えない傷は残った。
遠野の心に。
「砂糖とミルクは?」
「いや、私も海斗もブラックだ。」
伊達の声に遠野が答える。
ミニ・バーの奥からコーヒー豆を挽く良い匂いがする。
ここには椿の意向で何もかも一流の物が揃えられていると遠野が言っていたが、家政婦や料理人を置かないのはやはり
愛人の為なのだろう。
海斗を同居人として選んだのも、椿の意向だと聞いた。
海斗は純粋なゲイだ。
遠野に拾われてからは誰とも性交を持っていないが、完全なウケなのだ。
だから椿も安心して愛人の傍に置けると判断したのだろう。
『わふっ。』と白尾の鳴き声がした。
どうやら末っ子のお出ましらしい。
ゆっくりと立ちあがった久秋の左腕に、ぬいぐるみを抱いた子供がしっかりと抱き締められている。
「お待たせ。」
久秋の声に、しかし海斗は硬直したまま動けない。
「海斗。三男の秋典さんだ。」
遠野の言葉に、頷く事すら忘れてしまった。
思わず口元を手の平で覆うと、海斗は雄叫びを呑み込んだ。
海斗の目の前に、激烈に愛くるしい生き物がいた。
な、ななな、なんだなんだなんだっ。
何っ、この超癒し系小動物は、何だっ!!
人間か。人間なのか。
何だっ、この殺傷能力100%の愛くるしさはっ!!
「海斗…落ち着け。」
無言のままパニクる海斗を憐れんだのか、遠野がそっとその耳元で囁いた。
放っておいたら本当に天国まで逝きそうな取り乱しっぷりだ。それほど海斗はパニクっていた。
周りに人がいなければ、絨毯の上を転げ回り、殴りまくり、のた打ち回りたいほどだ。
心臓がバクバクいって、頬に熱が溜まって来るのが自分でもよく解る。口元を覆った手が震え、目の奥が痛い。
あの美男美女に突っ込みまくりの椿をして『極上天使』と言わしめたのは、この激烈に愛くるしい癒し系小動物だったのか…。
海斗は思わず喉の奥で唸ってみる。
久秋の腕の中、じぃっと海斗を観察している瞳の愛らしさにクラリと来た。
俺、そっちの趣味無い…。そう思っても、この小動物から目が離れない。可愛過ぎる。どうしよう。
「久にぃ…あの人、どうしたの。」
硬直してしまった海斗を訝しんだのか、秋典が愛らしい声で久秋の耳元に囁いた。大抵の人間が同じ反応をするのだが、
その度に秋典は同じ事を聞く。理解できない事は気にかかる性質なのだ。
しかし、それにしても海斗は過剰反応し過ぎだろう。
「んー、ねぇ、紫朗さん。この人ヤバくね?」
久秋もなんとなーく不安になって来た。
「はぁ…いえ、そっち方面の趣味はありませんので…。」
そう言いつつ、遠野も頬を引き攣らせる。海斗に性癖の方向転換なんてされては大変な事になるのだ。この部屋で血の雨
なんて降らせたくはない。
秋典は片腕できゅうっと久秋の首に抱きついて、結局事の成り行きを観察している。好奇心旺盛なお子様なのだ。
一方、海斗はまだパニクっていた。視線の先には殺傷能力100%の愛くるしい顔がある。
これが、極上天使…。確かに、天使だ。だが、小悪魔的な可愛らしさもある。
ミルク色の肌は意外と健康的だが、瑞々しい水桃蜜(すいみつ)のような頬にはやはり赤味がない。漆黒の髪はふわふわで、
きっと触れたら羽毛のような手触りだろう。
大きな瞳も漆黒で、これは兄弟共通なのかもしれない。くっきりとした二重に長い睫毛。その睫毛に縁取られた眼元はまるで
アイ・ラインを引いたようだ。目尻は少しつり上がっているが、久秋のようなキツさは感じられない。小さな鼻も、蜜を滴らせた
ような唇も。顔のパーツのすべてが絶妙で、綺麗だ。
「海斗…そろそろ正気に戻れ。」
遠野に肩を軽く揺らされ、やっと海斗は現実の世界に戻って来た。
心臓に悪い。この兄弟は。
「す…すみませ…ん。」
やっとの思いで視線を下に外せば、足元で白尾が睨んでいる。完全に不審者扱いだ。
「ご…ごめんね…。」
白尾に謝ってどうする、自分。
心で自分自身に突っ込みを入れ、大きく深呼吸すると、海斗はやっと視線を秋典に戻した。
しっかりと兄に抱きつく小さな身体は、やはり14歳には見えない。
部屋着なのだろうか。細い身体を包む膝丈まである黒いセーターの胸元には小さな白いバラが編み込まれていて、足首
まである黒のレギンスの踝辺りにも白いバラがワンポイントで刺繍されている。
そう言えば、久秋の身体からもバラの香りがしてるな…。庭にバラがあったので気にも留めなかったが、何か理由がある
のだろうか。
ふと、そんな事を思いながら、海斗はやっと落ち着きを取り戻したように微笑んだ。
「はじめまして、秋典さん。東城海斗です。」
浅黒い頬にミルク色の頬を擦り寄せて、殺傷能力100%の生き物が目をくりくりさせている。
足元で低く唸っているのは忠実なる純白の番犬で、ソファで寝そべっているのは我が道をゆく純白の番猫(笑)で。
ふと、海斗が視線を向けると、遠野がヤレヤレと溜息を噛み殺し。
背後のカウンターでは、折角淹れたコーヒーが冷めてしまうと伊達が苦笑し。
黒い世界の片隅で、海斗は『よろしくね。』と差し出した自分の手のやり場に困り果てている。
「久にぃ。さわってもだいじょーぶかな?」
「うーん。バイ菌まんじゃないからな…。大丈夫だと思うけど。」
「こわくない?」
「多分…噛み付いたりはしないだろ。」
「さわってもいいか、にぃちゃにきかなくてだいじょーぶ?」
「あー。聞いた方がいいかも。兄貴ってば神経質だからな。」
ちょっと待て。そこの兄弟。
何、その会話。俺の扱いって酷くネ?
行き場を失った海斗の手と困惑する顔を交互に眺めながら、久秋と秋典は頬をくっ付けたままコソコソと会話している…
つもりらしい。海斗に会話が筒抜けなのでコソコソ話にはなっていないが、取り敢えず現在の海斗は不審者扱いである事
に変わりない。
挙句。
「シロさん。あき、にぃちゃ来てから『はじめまして』していい?」
「ええ。勿論です。」
おいおい。紫朗さんまで何言うの…。
遠野の一言にとどめを刺され、がっくりと項垂れる海斗であった。



