幽かな振動もなく最上階に着いたエレベーターは、クンッ、と乾いた音を立てて止まり、そのドアは何事も起こら
ないような顔で左右に開いた。が、そこにもまたドアがある。警備上の問題なのだとは思うが、あまりにも神経質過
ぎると海斗は思う。
しかし。中ドアがやはり何事もなく左右に開くと、海斗はあんぐりと口を開け、どっと疲れたように遠野の背に手の
平を押しあて寄り掛かった。
門…だ。
しかも、高い天井に限りなく近い、聳え立つ門。
その上。

「に…庭…。」

門の内側。決して華美ではないが可愛らしい庭が存在している。
咲いているのは白いバラ。蒼いバラ。
天井から優しく降り注ぐ光は、今流行りの青色発光ダイオード…。
いや。そんな事はどうでもいい。
さっきから海斗が気になるのはそんなものではない。
この空間の、意外な黒さ、だ。
名義は椿らしいが、ここに暮らしているのは18歳を長男とする16歳と14歳の子供たちだ。しかも、その内の一人
は保育園児と言ってもいい。
なのに…。
庭の草花の色を除けば、全てが黒い。
暗いのではなく、黒い、のだ。
「何だ…一体。」
天井も床も壁も。まるで洞窟だ。
この邸宅…愛人の為に用意したんじゃないのか?
海斗の疑問は尤もだろう。
だが、視線を紫朗に向けても、何も答えは返って来ない。慣れろ、という事なのだろう。

「お疲れ様です。」
ふと、海斗が視線を向けると、門の内側にいた直立不動の男・伊達が遠野と海斗に深く頭を下げた。
と、同時に門が開く。コンピュータ制御のこの門は、邸内からしか開けられない。海斗は後で知ったが、ここのセ
キュリティは世界最先端技術を駆使しているのだ。専用エレベーターに乗った時点で、防犯カメラが海斗の顔を
記憶し認識システムが作動している。世界広しといえど、愛人一人にこれだけの警備をする男はいないだろう。

遠野と海斗が二人の護衛と共に中に入ると、背後で音もなく門が閉まる。これだけ大きな門が無音で動くと、少し
不気味だ。
そのまま遠野の後ろを歩きながら海斗が奥に視線を向けると、黒い壁に黒い重厚な扉があった。そこから少し離
れた場所に、やはり黒くて重々しいドアがある。このドアの奥は事務所になっており、常時4、5人が詰めている。
更に三兄弟の居住空間に4人。少数精鋭で纏められた警護は厳重だ。人数ではない。超高層ビルの最上階と
も言えるこの場所に、本来ならばこれだけの警備は必要ないのだ。
だが、椿は三兄弟の為に、否、彼の愛人の為にこれだけの警備態勢をとっている。
それだけの価値がある、という事だ。

「皆さんは?」
遠野の言葉に、伊達が静かな視線を黒い扉に向ける。微かに笑ったように見えたのは、中で過ごす三兄弟を思っ
ての事だろうか。
「つつがなく過ごしておられました。」
伊達の言葉は、優しく、とても穏やかだ。
「秋典さんは?」
「今日はたっぷりとお昼寝されたので、ご機嫌はよろしいようで。」
「そうか。」
「待っておられましたよ。」
「ん?」
「今日はお客様が来ると鷹久さんが仰ったものだから、秋典さん、首を長くしてお待ちでした。」
「そうか。遅くなって悪い事をしたな。ああ、伊達。海斗だ。」

すべての生活が、秋典という少年を中心に動いている。
遠野と伊達の会話からもそれが感じ取れる。
遠野に名を呼ばれて海斗がペコリと頭を下げると、伊達は穏やかに笑った。とても極道とは思えない。ごく普通の
サラリーマンのようだ。身長は海斗より少し高いくらいだから、多分180センチ前後だろう。190センチある遠野と
比べると小柄に見えるが、上質なスーツの上からでも鍛えられているのがよく解る。

「伊達悠輔(ダテ ユウスケ)です。」
「東城海斗です。」
「後ほどキーを作る為の指紋をとらせて頂きますので。それと暗証番号を考えておいてください。」
「え…?」
「海斗さんは鷹久さんたちと同居されると聞いています。鍵がないと不便でしょうから。ここはセキュリティの関係
でダブルロックシステムを採用しています。その為に指紋が必要なんです。後でゆっくり説明しますが、ご協力を
お願いします。」
「あ、はい。宜しくお願いします。」

低くよく通る伊達の声を聞きながら、海斗はもう逃げられないのだと腹を括る。
尤も、遠野に呼ばれた時点で海斗には逃げ道などなかったのだが。

「では、どうぞ。」
伊達の声と共に重厚な扉がゆっくり開く。
瞬間。
「え…。」
海斗は大きく目を見開いたまま息を止めた。
視線の先に広がった扉の向こう側もまた、真っ黒い空間だったからだ。



椿邸の土間を含む玄関ホールは広かった。
一般家庭のリビングがすっぽり入ってしまうほどの広さだろう。黒くて、艶のある土間から続く僅かな段差のある玄
関フロアもまた真っ黒で、海斗は上下の感覚を失いそうになる。
「どうぞ。」
伊達に勧められ、真っ黒なスリッパに履き替えると遠野の後に続く。広い廊下の床は毛足の長い絨毯が敷き詰
められており、その毛足の密集具合いから最高級の日本製であると海斗は確信した。大の男が乗っても、絨毯
は僅かな窪みすら残さない。
高い天井を見上げると、埋め込み型の蒼い照明。
「まるで…海の底だな…。」
海斗がポツリと呟くと、遠野が意味深な笑みを浮かべ、伊達は苦く笑った。

長い廊下の左側にドアが三つ並んでいる。
セキュリティ・ルームとトイレとバス・ルーム。
この三つは主に警護班が利用しているらしい。廊下の奥には分厚い防犯ドアがあり、その向こう側が三兄弟のプ
ライベート・ルームなのだと伊達が説明してくれた。因みに、この分厚いドアは手榴弾を投げ込まれてもビクともし
ないそうだ。
リビングは、廊下の右側。出入り口は二か所。どちらも左右開きの扉で、奥の扉は防犯ドアの間近に作られてい
た。

さっきから、妙な音がする。
音楽のような。鳴き声のような。
なんだろう。
頻りに首を傾げる海斗に気付いても、遠野からの説明はない。
何やら愉しんでいる雰囲気さえある。
「海斗。」
「はい?」
「何を見ても、何が起こっても、決して大声を出すな。いいな?」
「あ、はい。」
どうやら、このリビングには大きな秘密があるらしい。

コンコン。

伊達のノックと共にリビングの玄関に近い方の扉が開く。
途端、あの妙な音がハッキリと聴こえて来た。
そして。

「…え…?」

驚きに見開かれた海斗の視線の先。
広いリビングには満天の星空。宇宙空間が広がっている。

「プ…プラネタリウム…。」
唖然とする海斗の声に、黒い世界の片隅で、ゆらり…と、何かが蠢いた。


すべてが黒いリビングを彩る満天の星空。
唖然と見まわす海斗の視線の片隅で、大きな影がゆらりと動いた。
その瞬間。パッ、と、蒼い照明に切り替わり、星空は消えた。
あの不可思議な音だけは聴こえ続けていたけれど。

「ただ今戻りました。」
「おかえりなさい、紫朗さん。」
リビングの奥から声がする。
その声のする方に視線を向け、再び海斗は遠野の背中に寄り掛かる。

「な…なんでリビングにスポーツ・カー…。」

椿邸の広いリビングには、インテリアとして漆黒の車が飾られていた。勿論本物だ。
普通、グランド・ピアノとかじゃないのか…? どうやって入れたんだよ。ここ、超高層マンションの最上階だろう…。
ぐったりと項垂れた海斗は盛大な溜息を喉の奥で噛み殺す。大体にして、このリビングは警護班の詰め所だろう
が…。何だよ、この広さ。まさか毎日俺が掃除とかすんのか? そんなモンモンとした愚痴が海斗の脳内で続く。
だが、広さの割には物が少ない。目立った収納家具もなく、全体的にスッキリとしている。

扉側から見て右側には6席の椅子が付いたカウンターがあり、見る限りはミニ・バーとなっている。その奥はコの
字型のオール電化キッチンとなっており、リビング側からは中が見えない作りらしい。
扉の正面の壁は一面ガラス張り。勿論防弾ガラスだろう。遠くにオフィス街にある高層ビルの明かりが散らばって
いる。
チラリと振り返って見れば、扉と扉の間にある壁にはスクリーンのような薄型テレビが掛けられており、室内のほ
ぼ中央にL字型の7人掛けソファが大きなガラス・テーブルを挟むように2つ置かれている。すべて特注だろう。
インテリア代わりの車は奥の扉から室内に向かって斜めに置かれており、その車体の影の壁にドアが一つ。掃除
機などを置く物置のようなスペースらしい。ダイニング・テーブルなどは見当たらないから、キッチンに置かれてい
るのか、或いはカウンターを利用しているのか。この段階では海斗に解るはずもない。

よく見ると、車とソファの間にある広い床に、大小様々なクッションが散らばっていて、その中に、カプセル型の家
庭用プラネタリウムがポツンと置かれていた。
空間すべてが黒いので、目が慣れても何が置かれているのか認識するまでに時間が必要だった。

「その人が、俺たちと同居してくれる人?」
少し掠れたテノールが、リビングの奥から聴こえて来る。
車のボンネットに座っていた長身の男に、ふと、海斗は視線を止めた。
黒い空間に溶け込む人影が、ゆっくりと動いて海斗の目の前に立つ。
海斗は、思わず見惚れてしまった。
うわっ、オットコ前ーっ。
背、高けーっ。
脚…長げーっ。

「ええ。今夜からでも同居させるつもりです。名前は東城海斗。」
「思っていたより若いね。」
「五月には28歳になりますよ。童顔なんです。」
「え、ほんと?」
「はい。海斗、二男の久秋さんだ。」
遠野の声に、海斗はビクリと肩を震わせた。
それまでの二人の会話も殆ど耳に入ってない。
「…え…あ…。」
「?」
「東城…海斗です。」
「うん。今聞いた。よろしく。」
「よ…よろしく。」

海斗の目の前に立つ戸崎久秋は、頗るイイ男だった。イケメンなんて軽い言葉では言い表せないような、飛び切
りの男前。
浅黒い肌。彫りの深い顔立ち。髪も瞳も漆黒で、くっきりとした二重の眼元は、目尻がキリリとつり上がっている。
そうとう気が強そうだ。
身長は伊達とそう変わらないだろう。ただ、細身だ。肩幅はあるが、身体全体に厚みがない。
黒いジーンズに、黒い長袖のTシャツ。綺麗な鎖骨にブルー・カメオを結んだ革紐がゆれる。
椿の弟だと言ったら、誰もが信じるだろう。

黒い世界に佇む久秋は、闇の帝王たる椿と雰囲気がとてもよく似ていた。