「ありがとうございました」
立花が深々と頭を下げた。何か思う事があったのだろう。来た時とは随分と雰囲気が変わっていた。偏見、という意味で言う
のなら、光司にこそ、立花は妙な偏見があったのだろう。父親も兄も
キャリア警察官という恵まれた環境に生まれ、しかも、光司自身もそうだったはずなのに、あっさりとその地位を捨ててしまっ
た。偏見というよりは、くだらない嫉妬。そして、ちょっとした意地があったのかもしれない。
だが、光司自身は至って自然体の男だ。しかも、目の不自由な同性の恋人を堂々と傍に置き
護っている。隠す気などさらさら無い。天晴れ過ぎるほど潔い男だ。
本人に言わせるなら、ただ正直に生きている結果が今なのだろう。こういうのが上司だったら面白かったに違いない。
そう思ったら、立花の中にあった妙な偏見も意味のない嫉妬も消えてしまったのだ。
「また、お話を伺う為にお邪魔すると思います。その時はよろしくお願いします」
「はい。仕事柄家にいる事が多いので、いつでも遠慮なく来てください」
ソファから立ち上がる刑事たちと光司の気配に、明は物言いたげに片手を伸ばした。その手を光司がそっと握る。少しショック
が強過ぎたようだ。明の手が冷たい。光司は「明さんはここにいて」と囁くと名残惜しそうに手を離し、二人の刑事を見送りに
リビングを出た。

玄関で靴を履く稲葉を見ながら、ふと、立花が光司に近づき顔を寄せた。不思議そうに首を傾げる光司の前で一瞬躊躇ったの
ち、立花は意外な事を口にした。
「ここだけの話ですが…」
「…え…」
「まだ、本人も知らない筈です」
「…そうですか…ありがとうございます」
光司が頭を下げると、二人の刑事は「お邪魔しました」と言って帰って行った。

あの牧野という被害者…どうやら失明したようです。

帰り際、ふと、顔を近づけて来た立花の言葉に、光司は何と言っていいのか言葉に詰まった。
まだ、牧野は自分が失明した事を知らないという。事件から四日だ。落ち着くまで医師も待っているのだろう。
それにしても、何と言う皮肉である事か。
「光司くん…」
リビングに戻ってから急に無口になってしまった光司に不安を感じたのか、明が落ち着きなくアンジェリーナを撫でまわしている。
事件の事だけでもショックだろうに、更に真実を伝えていいものだろうか。光司は暫く悩んでから明を抱き寄せた。
怖がらせないようにそっと顎を持ち上げ、静かに唇を重ね合わせる。それからそっと頬を擦り寄せ、その首筋に顔を埋めた。
明のプライドを挫く形で家に連れて来たが、正解だった。もしもあのままアパートに明がいたらどうなっていたか。考えただけで
ゾッとする。

「俺が…証言しようか?」

「明さん?」
「だって…」
「大丈夫。俺の証言だけで充分だと思うよ。もし必要なら、他の被害者を俺が説得してもいいし」
「ごめん…あの時、俺が勇気を出して訴えていれば…」
「明さんの所為じゃないよ。それに」
「それに?」
「運命…かな」
自業自得というには皮肉過ぎる結末。
弱者を食いモノにしていた牧野が、今度は自分が弱者となった。
きっと自ら犯した罪が、自らに返ってくるだろう。
「光司くん?」
「いや。多分、加害者の青年はそんなに重い罪には問われないよ」
「なら…いいけど」
不安げにアンジェリーナを抱き締める明のこめかみにキスを落として、光司は窓の外を眺め見る。
立花に偉そうな事を言ったが、実際、自分が体験してみるまで闇の中で生活する実感などなかった。
「何度もね…」
「え?」
「俺も、何度もやってみたんだ」
「何を?」
「目隠し」
「…え…」
「理解したかったんだ。明さんの事を」
「光司…くん…」
「リビングからキッチンへ行けるようになるまで、何時間も掛かった。最初は怖くて、ソファの前で立ち尽くしたんだ」
自分でその立場に立ってみて、初めて明の気持ちが解った気がした。光溢れる世界から、突然暗闇の世界に突き落とされた
時の絶望が。痛みが。恐怖が。
リビングからキッチンへ。その僅かな距離を移動するのに掛かる途方もない時間。そして恐怖。怖かった。そして、何もでき
ない現実が悲しかった。
この暗闇の中で、明は一生を過ごすのだ。決して光が戻らないという現実と一緒に。
「…」
「でも、目隠しして歩けるようになったからって、明さんの事を理解出来る訳じゃない。それでも」
「それでも?」
「ひとつ解った。明さんは強いよ。本当に」
「俺は…」
「だから、思ったんだ」
「?」
「一生、明さんと生きて行けるって」
そう。きっと大丈夫。
これから色々な事があるだろう。喧嘩だってするし、お互いのプライドだってぶつかり合うだろう。それぞれに家族だってある。
でも、きっと二人なら大丈夫だ。
どんな困難もきっと乗り越えて行ける。
「こう…じ…くん?」
意味が解らずに戸惑う明をしっかりと抱き締めて、光司はアンジェリーナを見下ろした。
お前だって、そう思うだろ?
「俺、近々明さんにプロポーズするから」
「へっ?」
光司の突然の宣言に、明は見えない目をいっぱいに見開いた。
今、とんでもない言葉を聞いた気がする。
「ぷ…ぷろぽぉず???」
「うん。覚悟しておいて」
「へ…ええっ?!」
これって…すでにプロポーズじゃないのか…とは、口が裂けても言えない明だった。


二人の刑事が光司の家に来て二カ月が過ぎた。
何事もなく過ぎて行く時間の中で、明は相変わらず「光司、もう寝かせて」と連呼する日々を送っている。
もう直ぐ明はアパートを解約し、光司の家に引っ越す事になっていた。
最初、明の妹夫婦が明と光司の同居には難色を示したが、すでにお互いの家を行き来し、週末には光司の家で二人の暮らし
を満喫していると言われ、最後は納得してくれた。目の不自由な明との生活は、若い光司には荷が重過ぎると感じていたよう
だが、旅行なども一緒にしていると聞き一応は安心したようだ。
まだ、明の中の蟠りが完全に消えた訳ではないだろう。だが、今回の事件で精神的に一区切りつける事が出来たらしい。意地
を張っても、結局は光司を心配させ、面倒を掛けるだけだと考えた末の決断だ。
ただし、仕事は今まで通り続け、家賃など生活費は払わない代わり、明は自費で光司の取材旅行には必ず同行する事を約束
させられた。妥協案だと光司は言うが、どこまで本気なのか解らない。どう考えても明が上手く丸め込まれた気がする。
「年下の光司くんに養われるなんて、俺の男としてのプライドはどうしてくれる」
「大丈夫。身体で充分お釣りが来るんだから」
「光司っ!!」
そんな会話も、二人には当たり前になった。
確実にお互いの距離が縮まった事を実感し、傍にいるのが当たり前の日常がそこにある幸せを甘く噛み締める日々が続く。

そんなある日、立花からの一本の電話が事件の意外な結末を伝えた。
「え? 牧野が傷害事件の訴えを取り下げた?」
『ええ。なので青年は不起訴となり、無罪放免です』
「しかし…どうして」
『それが、こちらも訳が解らない状態で…』

自分が失明した事を知った当初、牧野は烈火の如く怒り狂い、自分を失明させた青年を殺してやると大暴れしたのだという。
当然、訴えを取り下げるなんて事があるはずもない。それどころか、傷害致死だ、殺人未遂だと騒ぎ、刑事を呼んで喚き散ら
した。
ところが。

『訴えを取り下げる二日前くらいに、牧野の入院している病院に、白い杖をついた男が見舞いに来たそうなんですよ』
「白い杖?」
つまりは、目に障害があるという事だ。
『ええ。なんか、ヤクザっぽい男だったらしいんですが。その男が帰った後、急に牧野が退院するだの引っ越すだの言い出し
たらしくて。まぁ、退院は出来る状態だったらしいんですけど』
「ヤクザっぽい男…」
立花の説明に、ふと、以前明に聞いた男の事を思い出した。

昔、センターで牧野に酷い事をされそうになった時、助けてくれた人がいたんだ。
ヤクザらしいとか噂があって、俺も怖くて口を聞いた事がなかったのに。助けてくれたんだ。
もっと強くなれって怒られたりしたけど、凄く感謝してる。

「まさか…」
『何か?』
「いえ。それで?」
『ああ。それで椎名さんの証言も必要なくなりましたので。その報告を』
「…そうですか。でも、良かったです。目の見えない人が刑務所に入る事にならなくて」
『ええ。本人も家族も凄く喜んで、抱き合って泣いてました。椎名さんにもお礼を言ってくれと頼まれたんです』
「え? 俺に、礼ですか? どうして」
『結局、椎名さんだけだったんですよ。証言してくれたのは。それで凄く感謝していたようです。最初は住まいを教えて欲しいと
言われたんですが、それは出来ないので』
「そうですか」
『はい。では、今回はありがとうございました』